イチローがマリナーズの球団会長付特別補佐に就任してから、筆者がセーフコフィールドを訪れるのは、これが初めてだった。イチローは、今季はもう選手としてプレーしないとはいえ、試合前はいつもとほぼ変わらないルーティーンで練習に取り組んでいた。

 例えばナイター明けのデーゲームの日、チームは試合前の全体練習を休むことが多い。投手だけはキャッチボールをしにグラウンドに出てくるが、野手組は一切出てこないことがほとんど。だがそんな時でもイチローは、室内のトレーニングを済ませると、外野のフィールドに出て、ストレッチや軽いランニング、キャッチボールを行う。それは、今も変わっていなかった。

 そんなデーゲームの試合前、大勢のファンが、ホームチーム側のスタンド最前列付近でイチローが出てくるのを、今か今かと待っていた。今回見て驚いたのは、その人数が尋常ではなかったことだ。ダグアウトのすぐ横から一塁を通り越して外野の方まで、30メートル以上の広範囲に、何重もの人垣ができ、ざっと見積もっただけでも200人以上はいたと思う。ヤンキース時代やマーリンズ時代にもファンが試合前に集まってはいたが、ここまでの人数は見たことがなかった。圧巻の光景といっても過言ではない。

 集まった人たちはイチローが出てくるとスマホのカメラを掲げながらその一挙手一投足を目で追った。手作りの大きな応援幕を掲げているファンも多く「イチロー!」と叫ぶ声が何度も響いた。球団会長付特別補佐になったイチローを試合の中では見られないので、その分、試合前の姿を少しでも見たいというファンが増えたということなのだろう。

 しかし、球場まで来られないファンは、チームが勝った時だけグラウンドに出てきて勝利のハイタッチの列に加わるイチローをテレビで一瞬見ることができるだけだ。そこで筆者はシアトルにいる間、「イチローさんの練習中の様子を写真に収め、MLB情報アカウントにアップしなければ」という、謎の使命感に駆られていた。

 しかし念のため、本人の許可を得た方がいいかもしれないと思い、取材初日にすぐにクラブハウスへ行き、聞いてみた。

「そんなん、みんなやってるんちゃうの? そう聞くってことは、NOの選択肢を与えたということだからね。そう聞かれたら、ダメだって答えたくなるけど…」。

 イチローはそう言って、アハハと笑った。しかし、いざグラウンドでカメラを向けると、撮りやすいようにポジショニングをしてくれているように見えた。それは決して、気のせいではないと思う。

【水次祥子】(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「書かなかった取材ノート」)