プレーバック日刊スポーツ! 過去の7月22日付紙面を振り返ります。2011年の1面(東京版)は松井秀喜日米通算500号でした。

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<タイガース5-7アスレチックス>◇2011年7月20日◇コメリカパーク

 アスレチックス松井秀喜外野手(37)がついに日米通算500号本塁打を達成した。タイガース戦で同点で迎えた6回に今季7号ソロを放ち、節目の大台に到達した。今季6号を放った6月16日から出場25試合目、103打席ぶりの難産の末に生まれたメモリアルアーチ。栄光と挫折を味わったプロ19年のホームラン人生を象徴するかのような1発だった。

 記念の放物線は、右翼ポールへ高々と上がった。同点で迎えた6回。メジャー初登板のタ軍左腕ビーローの速球を力強く振り切る。栄光と挫折を経た日米通算500号は右翼ポールに直撃。稀代のホームラン打者が、この1本を生むまでに1カ月以上もかかった。

 松井 だいぶ時間かかったけど、明日以降そういう(500号の)質問をされないので良かった。意識は本当になかった。こんなにかかるなら意識すれば、もっと早く出たかも(笑い)。

 500号を射程圏内にとらえながら、想像以上に苦しい戦いだった。序盤戦からの不振で「一番いい状態がどんな形だったのか、思い出せない」と漏らしたこともある。ゲレン前監督時は何度も先発落ちを味わい「(出場が)不安だ」と焦燥感にかられた。この1カ月は守備起用も増え、珍しく「多少は疲労もある」と弱音が出た。苦しみ抜いた末のメモリアル弾だった。

 松井=ホームラン打者。この英雄像から逃れられないのは、自覚している。日本時代は「今年中に通算200本打ちたい」と宣言したこともあるが「米国に来てすぐに考えが変わった」。日本で332本を量産した時とは違い、大リーグでは現実は甘くない。投手のレベルが高い上、年間20チーム以上と対戦。研究だけでは追いつけない。左手首、両ヒザの故障、年齢も重ねた。巨人時代の約14打数で1本塁打が米国では約24打数で1本になった。

 松井 若いころは多少、自分の数字を考えた。でも米国では現実的に打てる割合は少ない。だから昔ほど記録に対する意識は薄い。

 宿命から逃げたわけではない。ヤンキース時代に評価されたように、勝利に貢献できる打者でなければ、生き残れない。そして、それは松井の野球に抱く価値観と等しかった。「すごい投手と対戦したいとは思わない。打てなかったらチームの勝つ可能性が低くなるわけだから」。勝利の先に本塁打がある。その考えは米国でさらに洗練された。

 夢を追い求めてきた時代があるからこそ、最高峰の舞台にたどりつけたのも事実だ。小学生の時、3歳上の兄利喜さんらと実家裏の空き地で毎日のように野球をした。打球が外野を越える瞬間は至福の時だった。「子供の時、あの喜びを知った。それがホームラン打者として夢を追い求める最初の分岐点だった」。

 プロ5年を要した本塁打は自信を与えた。巨人時代の入団当初、難敵だった石井一(当時ヤクルト)や大野豊(広島)。石井一の鋭角なカーブに思わずのけぞり、プロ1年目の大野との対戦時は「代打の代打」を送られた。その2人からの初本塁打は入団5年目の97年。「どうやったら打てるか考えながら練習した。5年かかって打った時は本当に自信になった。石井さんのカーブ、大野さんのスライダーを見てきたからこそ、米国に来ても驚くことはなかった」と振り返る。

 500号をこのチームで打ったのは運命的だった。ドラフト当日も実家の居間に飾られていたのは、小学生時代にあこがれていたアスレチックスの帽子。時がすぎ、その帽子はいつの間にか消えていた。だが今季、ア軍に加入。開幕直前に渡米した父昌雄さんにサイン入り帽子を渡した。時代を超え、実家に飾られているのは運命のようだった。

 今年で37歳。打撃不振を衰えと見る向きもある。「年を取ることは受け入れないと。若ぶるつもりはない」。20代と今では体が確実に変化していると感じている。だが野球への情熱は衰えない。日本では王貞治ら過去8人が達成した記録に肩を並べた。「(感想は)正直ない。でも光栄なこと。早く501号が出ればいいですね」。夢と現実のはざまで戦いながら、明日も放物線を追い求めていく。

※記録や表記は当時のもの