アメリカに出張している。ボストンに滞在中、レッドソックス上原浩治投手(41)とゆっくり話す機会があった。「久しぶりだなぁ。いつ以来だろうな」と言われた。出会ったのは巨人担当時代の06年。当時は孤高のエースとして別格で、気安い感じはなかった。

 時が解決する、とはよく言ったもので、いつの間か最も会話をする選手になっていた。最初の接点は上司の紹介。ザ・関西人という感じで襟を開いてくれた。こちらも肩肘張らずに接しないと逆に失礼、と思った。コントロールとフォークボールがずばぬけている1歳上のお兄ちゃんは、かなりの軽口も自然体で受け入れてくれる人間味があった。平凡な日々が距離を縮め、孤高を解かした。

 彼から学んだ。そもそも孤高の人とは、本人が決めるものではない。周囲が勝手に恐れたり、過剰に遠慮することで壁ができ、偶像が一人歩きして定着する。像が本人と一致するとは限らない。確認もせずに恐れを抱いて敬遠するのは損だし、「あの人は、どうせしゃべらないから」は、自分を正当化するための逃げ口上なんだと思う。

 ただ、野球に取り組む姿だけを見て「孤高」と表現するのは、あながち間違いでもなかった。オンとオフにバリケードを張り、特にキャンプインの2月1日以降、野球以外にはまったく興味を示さなかった。

 意志力こそ上原の最も優れた資質である。仕事に没頭でき、1人に強く、勝負への執念があふれている。キャンプ中、テレビの前でほとんど会話なく、なぜか「関口宏の東京フレンドパーク」を見て、午後8時前の終了を合図に「よし、明日も早いから帰って寝よう」と解散したことも。幾重にも織られた意志の裏打ちが、昔も今も彼を支えている。

 08年は多くの時間を過ごそうと心掛けていた。春、海外FA権を取得すると同時に会見を開き、メジャー挑戦を表明した。その頃は互いに無言でも窮屈を感じなかった。プロらしいプロと出会う縁はめったにない。空気のような当たり前の毎日が終わる。えもいわれぬ寂しさがあった。

 2人でゆっくり話をした記憶をたどれば、08年の11月3日に当たった。西武との日本シリーズ移動日に、立川で食事することになった。鉄板焼きの店内は他に誰もいなかった。初戦に先発した上原の先発はあと1回。第7戦のスクランブル登板も可能性としてあろうが、いずれにせよ「巨人上原」は残りわずか。その年は北京五輪もあり、思い出話などをしていた。

 言葉も途切れがちになり、そろそろ終わろうかという時、ふと上原が「慎之助は間に合わないのかなぁ」と言った。阿部はリーグ優勝を決めた10月10日のヤクルト戦で右肩を脱臼。捕手としての出場は絶望で、東京ドームの試合は欠場していた。

 浮きかけた腰を落とし、お茶をすすりながら、長年組んだ女房役の話題になった。(つづく)【宮下敬至】