プレーバック日刊スポーツ! 過去の8月23日付紙面を振り返ります。1998年の1面(東京版)は、ミスタータイガース村山実氏が61歳で死去したことを伝えています。

 ◇ ◇ ◇

 昭和30年代から40年代の阪神タイガース黄金時代を支えた名投手、村山実さん(むらやま・みのる=日刊スポーツ客員)が22日午後11時38分、直腸がんのため、神戸市中央区の神戸大医学部付属病院で死去した。61歳。兵庫県尼崎市出身。自宅は兵庫県芦屋市精道町8の18。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。村山氏は1959年(昭34)に阪神タイガース入団。ダイナミックなザトペック投法で活躍。巨人長嶋、王らと数々の名勝負を演じ「ミスタータイガース」としてファンに愛された。

 気迫の男・村山実があまりにも早く人生のマウンドから降りてしまった。全く人には知らせず、たった一人で闘い抜いた3年間の闘病生活。自分が苦しいことは周囲には少しも見せず、直腸がんと闘い続けたが、ついに病気に勝つことはできなかった。

 ユニホームを着ているときは、典型的な“お山の大将”だった。すべてをマウンドで燃焼させて、全盛期の長嶋、王に正面から立ち向かっていった。ザトペック投法、炎の男、多くの形容詞に彩られたミスタータイガースは、現役晩年から血行障害と闘わねばならなかった。それでも投げ続ける姿は、このスターの悲劇性をなお高めていった。

 2度にわたって阪神の監督を務めたが、決して満足できる成績は残せなかった。だが、その一方で、実業家としては地味ながら着実な成果を残した。ユニホームを脱いだとき、村山さんは“お山の大将”であった自分を、きれいサッパリ忘れることができる人間だった。

 気迫の男は、半面周囲に気を使い過ぎるほどに優しい人だった。それはマウンドで仁王立ちする姿とは恐ろしくかけ離れていた。恐らく、それがこの人の実像だったのだろう。野球が介在しないとき、村山さんの笑顔は、どこにでもいるおじさんのそれであった。

 とはいえ、がんとの闘いは、ストイックなまでに隠し通した。それが村山実の美学だった。苦しいのは自分だけでいい。他人には絶対に気を使わせない……。死ぬまで彼はそのことにこだわった。

 野球評論の仕事はセーブしたが、7月までは球場には姿を見せた。野球を見るときだけが、自分の病気を忘れることができるときだったのだろう。あまりにも早く逝った炎の男は、あの世から愛し続けた阪神を、そして野球を見守り続けるのだろうか。

 ★阪神吉田監督 大変驚いています。現役時代から村山さんの闘志あふれるプレーぶりに敬服しておりました。阪神タイガースを愛して、多大な貢献をされた方です。お体の具合がすぐれないと聞いていましたが、大変残念です。心よりご冥福をお祈りします。

 ★巨人長嶋監督 えっ! そうなんですか。急なことで驚いています。詳しいことは分かりませんが、一緒に野球をやった仲間だけに本当に信じられません。

 ◆村山実(むらやま・みのる)1936年(昭11)12月10日、兵庫県尼崎市生まれ。住友工(現尼崎産高)から関大へ進み、2年の時、エースとして大学日本一に輝いた。59年に阪神入団。1年目に18勝(10敗)をマークし防御率1位、沢村賞を受賞。62、64年のリーグ優勝に貢献。現役14シーズンの通算成績は509試合に登板して222勝147敗、防御率2・09。獲得したタイトルは最優秀防御率3度、最多勝2度、沢村賞3度、MVP1度。背番号「11」は阪神の永久欠番となっている。70、88年と2度にわたり通算5年間阪神の監督を務めた。93年(平5)野球殿堂入りした。

※記録や表記は当時のもの