プレーバック日刊スポーツ! 過去の9月27日付紙面を振り返ります。2014年の1面(東京版)はプロ野球巨人原監督のセ・リーグ3連覇でした。

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<DeNA3-6巨人>◇2014年9月26日◇横浜

 男の約束を守った。優勝マジック2の巨人がDeNAに快勝。2位広島が敗れ3年連続36度目のセ・リーグ優勝に輝いた(1リーグ時代を含めると通算45度目)。監督として通算7度目のリーグ優勝を成し遂げた原辰徳監督(56)は、選手たちの手で8度、宙に舞った。今年1月10日、監督付として長くコンビを組んだ水沢薫さんが肝不全のため48歳の若さで死去した。相棒の無念を晴らすと誓い、力強く球団創設80周年のペナントを奪った。

 みんなが持ち上げてくれた。8回も天に近づけてくれた。原監督は横浜の空に報告した。「私ごとですが」と断った。「父が他界した、と。この横浜スタジアムで胴上げできた」で泣けた。大学時代、5月に他界した父貢氏と鍛えた場所だった。「まだまだと、言っていると思います。もうひと山、ふた山乗り越えられるように」と約束した。

 天には、報告する男がもう1人いた。

 靴音が響く静けさだった。原監督が1人で歩いていた。松の内も明けない1月5日、羽田空港の出発ロビー。底冷えの快晴だった。

 ワックスがけの床が陽光を反射した。「ミズが。今、あんまり良くない。今年は絶対、勝たなくては」とうなった。床に顔が映った。目を見開いたままだった。「じゃあな」と向かった先は宮崎。健康診断を初仕事に選んだ。2年前の検診で水沢さんの病が見つかった。前年は一緒に行けなかった。「なぜ強く誘わなかったんだ」と己を恨んだ。勝って喜ばせると決めた。

 4日後、1通のショートメールが届いた。

 すいません。今運転中です

 1月9日、15時16分。送信者は水沢薫。9時間6分後、帰らぬ人となった。

 最後の闘いに挑んでいた。意識が薄らいでいく中でも、原監督の着信だけは、必ず、反応した。大事そうにスマートフォンの画面をなでた。「9日に電話をかけてね。強い薬を飲んで、闘っている最中だったから。うまく会話できなかった。終わった直後に、このメールが来た」と打ち明けた。全身全霊の12文字だった。10センチの近さで見入った。「これ…。『運転中』がミズらしい。運転は、絶対できない。心配させまいと最後まで気を使ったんだ」。

 弔辞を読むことになった。1月14日、千葉・勝浦に出向き、国際武道大で講義をした。純な学生を受け止めた3日後、友を送る皮肉だった。帰りの車中、後部座席で考えた。「素直な気持ちを収めよう」。話しかけるつもりで書き進めた。

 WBC(09年)で世界を極めた喜び。危なっかしい英語をアシストして、アメリカの動物園に向かった思い出。「一緒に戦おう」と成田空港で抱き合った12年の優勝旅行。こう結んだ。

 「ミズ、オレは悲しい。早すぎる別れだな。でもミズは精いっぱい、全速力で頑張りました。あなたが愛した家族、奥様、2人のお嬢様、参列してくださっている皆さま。今はみんな、悲しい。でもあなたが教えてくれた、くよくよせずに前向きに進む。この事はみんな分かっています。ミズ、ミズはそんなこと心配せず、天国に行ってまずはゆっくり休んでください。だって頑張ったぜ。ミズ」。

 アクアラインの一本道にさしかかった。声に出してみた。おえつに変わった。正月の羽田と同じで、空も海も真っ青だった。

 9月21日の朝だった。体の真ん中でスマートフォンを抱いていた。優しくタップする指が止まった。

 すいません。今運転中です

 どうしても消去できなかった。「無理だな。見るためじゃないんだ。残しておくんだ」とほほえんだ。水沢さんに守られて、誓い通りに勝った。

 感謝の気持ちは巨人軍の総意でもあった。球団は「若い子をサポートしていただけませんか」と、妻美由紀さんに申し入れた。10月から球団職員となり、寮母として見守ることになった。志半ばで別れた盟友を忘れない。こうして歴史を紡いできた。80周年のペナントには、水沢薫の魂がいつまでも宿る。

 巨人原監督の話 今年のペナントレースは本当に長くて、険しくて、大変なシーズンだった。もがき、汗をかき、知恵を出しながら、本当によく頑張ってくれた。大変な喜びであります。苦しんだ分、ファンの方にも喜んでもらっていると思う。

※記録や表記は当時のもの