プレーバック日刊スポーツ! 過去の9月28日付紙面を振り返ります。2004年の3面(東京版)は近鉄バファローズのラストゲーム。

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<オリックス7-2近鉄>◇2004年9月27日◇ヤフー

 胴上げ、涙、抱擁…。来季は統合されるオリックスと近鉄が、パ・リーグ今季最終戦としてヤフーで対戦。試合後、55年の歴史に幕を閉じる近鉄の生え抜き・梨田監督が胴上げされ、両チームのナインは涙を浮かべて抱き合った。合併問題に揺れたシーズンを象徴するような幕切れとなった。

 近鉄バファローズ55年の歴史に幕が降りる日。近鉄投手としては90年の野茂(現ドジャース)以来となる最多勝、勝率、防御率の3冠を狙うエース岩隈が、ラストマウンドに立った。

 防御率以外は確定し、1回3分の2を自責点0で抑えれば、西武松坂を逆転する。2回2死一塁。この時点でトップに立っていたが、走者を背負った降板は自責がつく可能性がある。続投し、オリックス相川に痛恨の1発を浴びた。最後の近鉄史に残る記録がひとつ減ったが、岩隈は「しょうがないです。防御率のタイトルは来年に取っておきます」と前を向いた。

 試合後、岩隈を始め近鉄ナインは、オリックスナインと握手を交わした。チームの存続を訴え続けた磯部選手会長は、共闘した三輪選手会長と握手した。赤堀は、かつての同僚・吉井と抱き合った。近鉄でプレーしたオリックス大島も涙が止まらない。

 クライマックス。梨田監督が5度宙を舞った。磯部も胴上げされた。中村は「監督には内緒でした」と明かした。ナインは寄せ書きしたサイン入りバットも贈った。最後に、梨田監督は「現実として受け止めて、これからもユニホームを着ていくんだから頑張っていこう」と訓示した。猛牛戦士はうなずき、静かに球場を後にした。

 ◆近鉄バファローズ 近畿日本鉄道(本社・大阪市)を親会社として1949年(昭24)、2リーグ分立を機に創設、パ・リーグに加盟。当初のチーム名は近鉄沿線の名産品である真珠にちなんで「パールス」。59年に猛牛といわれた千葉茂氏が監督に就任、チーム名も「バファロー」に。62年から「バファローズ」。

 低迷が続き「お荷物球団」とも呼ばれたが、79年に西本幸雄監督の下でリーグ初優勝。97年に本拠地を藤井寺から大阪ドームに移し、99年から「大阪近鉄バファローズ」と正式呼称を変更。01年に通算4度目のリーグ優勝を達成したが12球団で唯一、日本一を達成できなかった。パ・リーグ創立時からチーム名が存続する唯一の球団だった。オーナーは田代和氏(77)。

※記録や表記は当時のもの