プレーバック日刊スポーツ! 過去の10月27日付紙面を振り返ります。2006年の東京版1面は「日本ハム日本一!今季限りで引退の新庄が涙の胴上げ」でした。

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<日本シリーズ:日本ハム4-1中日>◇第5戦◇2006年10月26日◇札幌ドーム

 こんな幸せな胴上げがあるだろうか。日本ハムが中日を4−1で下し、4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一となった。今季限りでの引退を表明し、日本中から注目を浴びていた新庄剛志外野手(34=SHINJO)が、泣きながら超満員の地元札幌ドームで一番最初に宙に舞った。奔放なパフォーマンスで観客を引きつけ、チームを巻き込んで頂点まで上り詰めた。記憶に残る異色のスターは日本シリーズの舞台も「新庄劇場」にして、野球人生28年間の花道を飾った。

 新庄が止まった。動きだすこともできなかった。9回2死。左中間への飛球を追った。森本がウイニングボールをつかむ。全身を丸ごと包み込むように力いっぱい抱き締めた。左肩に顔を埋めた。1秒、2秒、3秒…。固まったまま歩きだすこともできない。チームメートは自然とセンター方向へ、新庄を迎えに行った。1人ずつ抱き合っていく。試合中から流し続けた涙が止まらない。「チャンピオンになったということより、この仲間たちと野球ができなくなるという思いがすごく強くて」。日本一の涙は、北の大地に落ちた。

 体がフワリ持ち上げられる。1番最初に3度舞った。両人さし指を天高く突き上げ、札幌ドームの宙を飛んだ。日米含めて初めての経験。輪から外れると、両ひざに手を突いたまま、また号泣した。

 8回、最後の打席。いつも笑顔の男が、次打者席から泣いていた。4万2030人観衆が総立ちになった。泣いて、泣いて、最後はフルスイングで3球三振だ。「7回ぐらいから(守備位置の)オレのところに(打球が)飛んできたら捕れなかった」。そう試合後に明かした。

 笑顔の裏に、いつも孤独な闘いがあった。人気も成績も低迷したチームを変えた。最後の最後まで、行動を続けた。実はこの日本シリーズ2日前。札幌から敵地へ移動した19日の練習中、ヒルマン監督を呼び止め、衝撃的な直談判をした。「引退するオレではなくて若い選手を出してほしい。スタメンで出る、こういう経験はなかなかできない。成長できるから」。初戦の先発出場を自ら辞退する申し入れだった。売り出し中の若手、紺田の起用を勧めた。

 シリーズ出場が決まった時から自問自答していた。その前日「言おうか、どうか迷っている。オレも最後の日本シリーズだし…」。途中出場でも構わないとの考えを約10分間、訴え続けたという。週刊誌に2人の確執の記事が掲載された発売翌日には、ヒルマン監督が事実無根と事情説明に来てくれた。02年米ジャイアンツ時代に新庄が監督と衝突した理由を調査し、束縛せずにプレーをさせてくれた。3年間、わがままを聞いてくれた指揮官に初めて強硬に言った。「そういう考えも分かる。だが最後に男になるという考えもある」。そう説かれて、最後まで出続けた。「ホントに、このマンガみたいなストーリー。出来過ぎでしょ」。ラストの「新庄劇場」を痛快に完成させた。

 人生、すべて1人で決断し、歩んできた。阪神入団、メジャー挑戦、日本ハム移籍。そして4月の異例の電撃的な引退表明もそうだった。いつでも「(強運を)持ってるわ、オレ!」と自分を信じて選んできた道は最後に1本、最高の花道へとつながった。

 「(3度目の)ビール掛けも慣れちゃった。引退撤回? やめちゃうよ。でも最後にこんな結果になるんだったら、もう1年ぐらいやれば良かったかなあ」。とことん野球を楽しんで、人を楽しませて、新庄は幸せすぎるピリオドを打った。

※記録と表記は当時のもの