プレーバック日刊スポーツ! 過去の12月16日付紙面を振り返ります。2005年の1面(東京版)は、近鉄、オリックスで指揮をとり、3度のリーグ優勝、1度の日本一に導いた仰木彬氏が15日午後4時10分、呼吸不全のため福岡市内の病院で死去-でした。

 ◇ ◇ ◇

 近鉄、オリックスで指揮をとり、3度のリーグ優勝、1度の日本一に導いた仰木彬氏が15日午後4時10分、呼吸不全のため福岡市内の病院で死去した。70歳。仰木氏は肺がんで闘病中だった。通算14年に及ぶ監督時代に、イチロー(マリナーズ)、野茂英雄ら名選手を多数育て、意表を突く采配は「仰木マジック」と呼ばれた。今季は近鉄球団と合併した新生オリックスの指揮をとったが、体調不良で辞任し、同球団のシニア・アドバイザーに就任。だが、退任後は入退院を繰り返していた。葬儀は本人と家族の意向で、家族、親族のみの密葬で行われる。

 酒を愛し、野球を愛した…。現役時代は二塁手として西鉄の黄金期を築き、近鉄、オリックスでは監督としてチームを優勝に導いた仰木さんがこの日夕方、福岡市内の病院で、息を引きとった。

 「グラウンドで死ねたら本望や」。

 それが最近の仰木さんの口癖だった。

 昨オフ、近鉄、オリックスの合併により誕生した新球団の監督を引き受けた。すでに体調を崩していたが、古巣の窮地を見過ごすわけにはいかなかった。シーズン中も極秘裏に定期検査を繰り返していたが、がんは容赦なく体をむしばみ続けた。

 今年は「野球界への最後のご奉公や」と冗談めかしながら、気力を振り絞ってきたが、ついに力尽きた。

 パ・リーグ一筋の野球人生だった。西鉄では、三原監督にその非凡な才能を見いだされた。中西、稲尾、豊田らと、野武士軍団といわれた常勝チームをけん引。コーチ業を経て就任した近鉄監督時代、その戦術は“仰木マジック”と称された。名監督だった三原魔術が仰木野球の原点だった。

 18年間のコーチ時代を経て、88年に近鉄監督に就任。梨田、大石、阿波野らを擁して、伝説の『10・19』の名勝負を演じた。阪神大震災に見舞われた95年、オリックスで“がんばろう神戸”をスローガンにリーグ優勝。打ちひしがれた被災者を励まし、勇気づけた。連覇、そして長嶋巨人を破り日本一。熱パ仕掛け人として球界を盛り立てた。

 まだ2軍選手だった鈴木一朗を「イチロー」とした名付け親だった。天才打者を世に送り出し、今やメジャーを代表するプレーヤーに育て上げた。体をひねって投げる野茂の変則フォームも、そのまま奨励するなど、個性重視がその特性だった。メジャーへ巣立った教え子のもとへ、ここ数年は、毎年のように渡米して激励していた。

 しかし今オフ、オリックス球団は仰木続投を望んだものの、それもかなわないほど病状は悪化の一途をたどった。酒豪として知られ、カラオケのマイクをもつと演歌や、越路吹雪の曲を歌った仰木さん。この日午後9時過ぎ、遺体は北九州市内にある自宅に運ばれた。グラウンドでは大逆転を何度も演じたが、奇跡は起こらなかった。

※記録や表記は当時のもの