今秋、クライマックスシリーズの阪神対DeNA戦では、泥だらけの甲子園で球場整備に奔走する阪神園芸が注目を集めました。グラウンドキーパーもまた、プロ野球に欠かせないプロフェッショナルです。年末スペシャル版として、整備課主任の渡真利克則さん(55)に密着。かつて阪神の野手で、85年リーグ優勝の瞬間に神宮でウイニングボールを捕りました。ダイエーで現役引退後は審判員に転身し、病気のためにセ・リーグ連盟事務所の職員になりましたが、10年から阪神園芸へ。野球に限りなき情熱を注ぐ「もう1つの物語」に迫りました。

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 阪神園芸のグラウンドキーパーにオフはない。12月中旬の鳴尾浜球場。内野の黒土はボコボコに盛り上がり、白い小石も目立つ。地表から約5センチ、掘り返したという。「23年少々たちますから。水はけをよくしないといけない。新人の合同自主トレまでに仕上げます」。誰もいない野球場を見渡し、渡真利さんは言う。

 かつての甲子園球児でタテジマでもプレーした。細やかな「選手目線」はいまも息づく。「硬さはどう?」。若い選手に声を掛け土の状態を確認する。練習で打球の動きに目を凝らす。

 「打撃のとき、ノックのときに跳ね具合をチェックしながら、硬いからほぐそうとか。硬くするのに日にちがかかる場合があるし、天候にも左右されます。現役の時は裏方がこんなに大変だと思わなかったです」

 92年に現役引退後、93年からセ・リーグの審判員として活躍したが06年の巨人対阪神戦中に倒れるなど、病に悩まされた。不整脈の手術を受け、復帰を目指したが断念。セ・リーグ連盟関西事務所の職員をへて、10年から阪神園芸の職員としてグラウンドに立つ。

 「現場が性格的に合います」と笑う。丹精込めて整備し、注意するのは「土の水加減」だという。早朝、足で土を踏み、軟らかさから土がどれだけ水を含むか判断する。「天気を予想して昼から雨なら水まきの量をやや少なくして、ほこりが立たない程度で終わる。水がいらない場合なら、昼からまこうとか」。鳴尾浜8年目。ある時、掛布雅之2軍監督(当時)が声を掛けてきた。「水はけ、いいよね」。かつての同僚だ。

 実は、渡真利さんは阪神の球団史に残る名場面を彩っている。85年10月16日ヤクルト戦で、投ゴロを捕った中西清起からの送球を一塁手として捕球。左腕を突き上げる。21年ぶりの優勝が決まった瞬間だった。

 「あの日はバースの代走から出て、守備に入ったんですね。あの年、社長が飛行機事故で亡くなられて、マネジャーには『最後のウイニングボールは、絶対に確保しておけよ』と言われていた。霊前に供えるボールでした。なくすわけにいかない。ポケットに入れる間、ちょっと遅れました」

 神宮で吉田義男監督の胴上げが始まる。背番号62も歓喜の輪に消える。「沖縄の宮古島から出てきて、気候にも慣れず、まさか自分が、こういうメンバーのなかで、ベンチに入るなんて普通では考えられない。本当に必死でした。あまり試合に出られなかったけど、あの年だけ日本一になって輪の中にいられたのは誇りに思います」。細身の右打ちでパンチ力を買われた。バースもいたし、真弓明信もいた。岡田彰布は安芸春季キャンプの宿舎で同部屋だった。「物事をシンプルに考えられる方です。1カ月間、いろいろ教えていただきましたね」。32年前の青春に目尻が下がる。

 まだ、グラウンドキーパー駆けだしの頃、選手の時と違う感覚に気づいた。トンボを用いた土ならしだ。「土をならす角度が違う。阪神園芸はトンボの両側で土の筋ができにくい。普段のノックの時も、できるだけなくしておきます。ちょっとでもイレギュラーするかもしれない。ちょっとした『手加減』です。感覚なので説明するのは難しい。感覚っていうのは、野球選手も一緒でしょう。その感覚を探すために、みんな一生懸命、練習する」。黒土で戦う選手への気遣いだ。

 沖縄・興南で甲子園に出場した当時の比屋根吉信監督の言葉を心に刻む。「積小致大」。渡真利さんは言う。「ちりも積もれば山となる。毎日努力して積み重ねれば、ゆくゆくは大きくなるぞと。いまも、それを思いながら、ずっとやっています。野球が大好きで、小さい時から野球しか知らない。いまだに携われているのは幸せです」。トンボで黒土をならすと、美しくなだらかだ。土守としての生きざまがにじみ出ていた。