“星野遺産”は、形となっていつまでも残る。星野仙一氏は監督時代、一貫してキャンプのハード面を充実させることに尽力してきた。

 「こんな環境では強くなれない」。10年オフ、楽天監督に就任した直後に繰り返した言葉だ。沖縄・久米島でキャンプインした当時の楽天は、実戦機会を求めて2月中旬に本島入りするも、拠点がなかった。日韓の各チームにお願いし練習場を間借りし、試合をする日々。「楽天が最後のユニホームになる。いなくなった後も残る財産を残さなくてはいけない。オレが招聘(しょうへい)された一番の意味だろう」と、流浪の民からの決別を誓った。

 広大な米軍施設の跡地を持つ、本島中央に位置する金武町に着目した。練習を切り上げユニホーム姿で町役場へ日参。ひざ詰めで交渉した。「直接会っていろいろ話せば、お互い感じることもある。そんなの手間じゃない。いくらでもやるわ」。泥のついた仕事着でプロ野球のキャンプ施設とは何たるか、を分かち合い、黒土と天然芝の球場ができたのは12年。もちろん今も拠点とし、2次キャンプを張っている。

 沖縄の各所に財産がある。中日監督時代は、徒歩ですべての練習を網羅できるメジャー式の施設を北谷に展開。阪神監督時代には、プラネタリウムのような宜野座ドームが建った。沖縄という場所を開拓するこだわりもあった。

 「野球場は、みんなの宝物になる。子どもたちが『ここでプレーしたい』と思う。プロが野球教室をやったりして、球場の周辺は全体としてレベルが上がっていく。沖縄の高校野球が強くなっただろう。それもいろんな高校が。無縁じゃないとオレは思う。少子化の時代で、これは特に大切なことだ。野球に育ててもらったんだから、恩返しだ」

 自軍のためという枠を飛び越し、球界の未来という大きなフレームの中に絵を描き、立派な作品が生まれた。オリジナルの仕事だ。【宮下敬至】