南海、西武、大洋(現DeNA)で活躍した片平晋作(かたひら・しんさく)氏が22日午前9時58分、膵臓(すいぞう)がんのために死去した。68歳。西武球団が発表した。東農大から71年ドラフト4位で南海に入団。王貞治に憧れ、上宮高校(大阪)時代から一本足打法に取り組み、プロでも独特のスイングでファンを魅了した。通夜、告別式は未定。

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 黄金期の西武を支えた片平氏が、68歳の若さで亡くなった。昨年、膵臓にがんが見つかったという。膵臓がんは、4日に亡くなった星野仙一氏と同じ。くしくもこの日は、星野氏の誕生日だった。球界に貢献した人材が、またもや膵臓がんで早すぎる最期を迎えた。

 08年にチームをともに日本一に導いた渡辺久信SDは「今日、メールが来て知りました。ただただショックです。日本一になった時は、1、2軍で連携させていただいた。現役から一緒にやってますし、すごくお世話になった方。今はびっくりしているとしか言えない」と惜しんだ。

 昨年、チームの秋季練習に顔を見せた時は元気そうだったが、9日の毎年恒例のプライベートな新年会を欠席。体調を心配する声が上がっていたという。その会から2週間ほど。ごく親しい関係者には、がんの宣告を受けたことを話していたようだが、悲報はあまりにも急だった。

 王貞治に憧れ、高校時代から一本足打法の左打者。王そっくりの構えは、プロ入り当初からファンの注目を集めた。

 77年にはバセドー病を発症。甲状腺ホルモンの分泌が過剰になる甲状腺機能亢進(こうしん)症の1つの同病を克服し、79年には規定打席に初めて到達。リーグ5位の打率3割2分9厘を記録した。80年にはキャリアハイの21本塁打をマークし、南海の主力打者として活躍。82年から5年を西武の主力としてプレーした。86年の清原入団に伴い、一塁手から指名打者に仕事場は移った。それでも、同年も打率2割9分2厘、17本塁打と結果を残し、翌87年には、南海時代の恩師でもある古葉竹識監督に請われて大洋に移籍した。

 現役引退後は、コーチや編成として後輩の指導に尽力した。佐藤友亮外野守備走塁コーチは「選手のことを第一に考えてやってくれる人だった」と振り返った。柔らかな笑みと温かい視線で、グラウンドを見つめる姿が、西武の名物だった。