虎のブーちゃんこと、阪神タイガースで寮長を務めてきた高木昇さん(61=球団本部チーム運営)が、12月をもって退団する。虎風荘を守り続けた9年間、計35年間にわたって裏方に徹した。

「気も張りましたが、体も張ってきたつもりです」

シーズン中は、午前5時に起床、2軍選手の朝食から、1軍でプレーする選手がナイター後に摂る夕食の後片付けまで、プライベートとは無縁の生活を貫いた。

ほとんど寮に住み込みながら、門限が遅い休日前も最後の1人が帰るまで“門番”を続けた。門限破り、事件、事故に巻き込まれたケースは皆無、徹底した管理で選手をガードした。

その高木さんが「恩人」という人物が3人いる。出身校で当時の別府大付監督・糸永俊一郎からは「信用、信頼、高木に任せたら大丈夫と思われる人間になれ」と教わった。

プロ入り後は、同じ捕手の田淵幸一氏に「ブーちゃん」とニックネームをつけられてかわいがられた。当時の虎風荘の屋上で、掛布雅之氏がスターダムをのし上がっていく原点にも触れてきた。

「毎晩、山内(一弘)コーチが、掛布さんと、佐野(仙好)さんの2人だけをつきっきりで教えるんです。その迫力がすごくて、とてもついていけるレベルじゃないと思いました」

1年目は2軍、翌年はブルペン捕手で、わずか2シーズンで現役を終えた。その高木さんにとって、かけがえのない人が、新人時代の監督、吉田義男氏だ。

高木さんにとって、吉田氏は実父(弘氏=10年逝去)と同じ年で「あつかましいですが、親代わりのような方」といった。

サラリーマンとして、ゼットスポーツに勤務した際も、同社アドバイザーだった吉田氏と野球教室、指導者講習会など、毎年、全国約50カ所を回った。

吉田氏が85年に2度目の阪神監督に就くとフロント入り、吉田付きマネジャーで、21年ぶりのリーグ優勝、日本一を支えた。

「勝負に厳しい人。優勝した年も絶えず不安だったでしょうが、勝ちに徹した。監督とは孤独だと思いました。今でも吉田さんは月に1度は寮にきて若手を励ましてくれます。あれだけタイガースのことを思っている人はいません」

高木さんの忍耐力が培われたのは、比叡山の大阿闍梨(あじゃり)、恩人の酒井雄哉から「続けることの大切さ」を教え込まれた影響が大きい。

ほとんどが虎風荘から巣立っていくなかで「寮長1年目の秋山、原口も気になるし、退寮後に成績が下がった藤浪、高山も気になって仕方がないです」と後ろ髪を引かれる思いだ。

阪神を知り尽くした功労者は「虎の穴から生え抜きが育っていくのが理想的。常に優勝争いを演じる、強いタイガース、猛虎に生まれ変わってほしい」と願ってやまない。【寺尾博和】

 

○…高木寮長は脳腫瘍から復活をかける育成扱いの横田にも思いを寄せる。17年2月の沖縄・宜野座キャンプで異状が認められ、一緒に帰阪。その後も入院、加療に付き添った。リハビリを続ける若虎に「(16年)1軍で開幕スタメン出場したくらいの逸材。いつかまた甲子園でプレーする姿を見たい」とエールを送った。

 

◆高木昇(たかぎ・のぼる)1957年(昭32)4月17日生まれ、大分県出身、61歳。77年別府大付から、ドラフト外で阪神入りし2年で退団。79年ゼットスポーツ入社。85年阪神にフロントで復帰し、吉田義男監督付のマネジャーとして、21年ぶりのリーグ優勝、日本一を経験。94、95年中村勝広監督、96年藤田平監督、97、98年吉田監督のもとで1軍マネジャーを務める。99~02年査定担当、03年、05年総務・キャンプ担当で、優勝祝賀会、V旅行などを仕切った。07年はクラブハウスの企画・設計に携わり、07~10年はチーム担当として甲子園球場リニューアルにかかわった。10年から虎風荘寮長。