1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。第1回は村上隆行さん(53)です。

悲劇の舞台となった川崎球場に最初の熱狂を呼び込んだのは村上隆行だった。

◆第1試合

2点を追う8回表1死一、二塁。代打村上は鈴木のソロ本塁打を含む2安打に封じ込まれていたロッテ先発小川から左中間フェンス直撃の同点二塁打を放つ。

村上 仰木監督と中西コーチが代打を告げるまでかなり長い間、相談してるんです。小川さんをどう打つか完全にイメージできていた。そしたら仰木監督が自分を押してくれたように見えたんです。

プロ5年目のこのシーズン、遊撃レギュラーをはく奪され、外野コンバート。ベンチスタートが増え、モヤモヤした思いを抱えながらもチームに貢献するすべはないかと考えていた。

村上 ベンチにいるとよく分かったんです。みんなギスギスしててね。派閥みたいなものがあって、これはいかんなと。それで始めたのがあのダンスなんです。

得点をあげると吉田剛らとベンチ前に飛び出し、ダンスを始めた。チームに一体感を生むためのベンチパフォーマンスの先駆けだった。

村上 今、振り返ってみると仰木監督はボクのことをよくわかっていたのだと思います。ムラッ気があるところとかね。レギュラーをはく奪して、あおられていたのかもしれない。だから、あの打席はすごく集中していた。重苦しい空気は切り裂けたかな、とは思ったんですけどね…。試合後、みんな泣いているんです。大の大人がですよ。ボクももちろん涙が止まらなかったけど、ロッテの一塁側ベンチ上にいた西武ファンが喜んでいたシーンがなぜか印象に残っています。

現役最後のシーズンを過ごした西武のユニホームを脱いだ後、評論活動などをしつつ、さまざまな形で野球にかかわってきた。今季まで独立リーグ・06ブルズ(東大阪市)で監督を務めてきたのもその一環。理由はつまるところ「10・19」に行き着く。

村上 負けてもないのに時間切れで優勝できないもどかしさ。なんなんやと。でも野球ってこんなに素晴らしいものなのか、と教えてくれたのもあの日なんです。重い空気。ピリピリした緊張感。疲れ切った体。その中でみんなが全力でプレーする。今も野球にしがみついているのはあんな経験をもう1度してみたいと思っているからでしょうね。

そんな村上に今オフ、中日から打撃コーチとして就任要請が届いた。

村上 独立リーグでやってきたことも評価されたのかもしれません。与田監督は同い年。男にするために頑張りたい。そして「10・19」のような熱い戦いをもう1度やりたいですね。白黒つけたいです。引き分けではなくてね。

あの日、起死回生の代打同点二塁打までベンチで盛り上げ役を買って出た。チャンスをひたすら待っていた男がひと振りで局面を変えた。現役引退から17年。待ちに待った「打席」が訪れた。(敬称略)

◆村上隆行(むらかみ・たかゆき)1965年(昭40)生まれ。福岡県出身。大牟田高からドラフト3位で近鉄入団。01年西武に移籍し現役引退。通算147本塁打。今季まで独立リーグ・06ブルズ監督。来季から中日1軍打撃コーチ。

◆10・19とは 1988年(昭63)10月19日に川崎球場で行われたロッテ対近鉄のダブルヘッダーのことを指す。先に全日程を終了していた西武に対し、近鉄は連勝すれば優勝だった。1戦目は9回に代打梨田の決勝打で4-3で勝ったが、2戦目は延長10回、4-4で引き分けて優勝を逃した。当時は延長戦の際、4時間を超えた場合はそのイニングをもって終了という規定があり、延長10回裏ロッテ攻撃中にタイムオーバー。優勝の可能性が消滅した。この悔しさを糧に、近鉄は翌89年にリーグ優勝を果たした。