阪神の矢野燿大監督はズルい人だ。いつも温厚で、どんな質問にも明快に受け答えをしてくれる。だけど試合では、まるで別の顔になる。抜け目なく、したたかで本心を見せない。やっぱり、いまも「捕手」なのだ。ヤクルトとの開幕3戦で勝負師の一面に触れた。

「いったい、何をやってるんだろう…」。1-0で勝った3月30日。テレビ観戦でそう思った人もいたはずだ。阪神がチャンスを迎えるとベンチ内が映った。矢野監督と清水ヘッドコーチが並び立って2人が同時に胸やら耳やらを手で触ってサインを出している。通常はヘッド格のコーチが監督の横に寄り添ってサインを伝達する。時々、監督自ら出す場合もあるが、だいたい1人だ。2人同時サインは、あまり目にしない。影武者かと思ってしまう。

阪神側から事情を聴くと「ベンチから情報が分かってしまうことも多い。どちらがサインを出しているか分からない」とのことだがそれも本当か分からない。指揮官の発案だという。手の内を明かさない。念には念を入れて、かく乱する。情報戦を制するべく、周到なベンチワークを見せた。

矢野野球は、なんだか不気味だ。敵も警戒を強め、ヤクルトの司令塔、中村も「スキがあれば、どんどん走ってくる。矢野監督らしいと思いました」と印象を口にした。象徴的な場面がある。30日の5回裏は阪神1点リードで1死一塁。投手の岩貞が2度、石川のスライダーにファウルの送りバント失敗。3球目だ。またもスライダーに一塁走者糸原が二盗敢行。岩貞も外し気味の外角球をボールと見極め、バントの構えからバットを引く。中村が送球するが、セーフになった。

あの打席も清水コーチと同時にサインを出していた矢野監督は「内緒にさせてください」と意図を明かさなかった。ヤクルト側は推し量る。敵陣関係者は「あれは奇襲というより、配球を読んだ上で攻めてきていた。変化球ファウル、変化球ファウル。次もバントで来るか、打ってくるか分からない。不用意に直球を投げられない」と話した。

ポイントの3球目。阪神は速球が来ないと読み切っていただろう。<1>岩貞は変化球に合わせられない<2>石川の速球は130キロ前後だから、とらえられるリスクが大きく投げないはず<3>変化球なら球速は落ちるし、ワンバウンドになる可能性もあって、走りやすい…。

岩貞はバントで走者を送れない雰囲気が漂い、矢野監督が配球を見抜き、瞬時に次善の策を講じたのだろう。スリーバント覚悟で糸原を走らせる。虎であまり見ない攻撃の伏線は二重三重にあった。空気を的確に読んで、敵の急所を突く。捕手目線の頭脳戦だった。