「ビッグマウス」と呼ばれた右腕が、マージャンの先生になっていた!

近鉄がリーグ優勝を飾った89年、先発で貢献したのが加藤哲郎さん(55)だ。巨人との日本シリーズでは3連勝した直後に「巨人はロッテより弱い」という発言が物議を醸した。加藤さんは今、大阪市中央区の「天満橋会館」の先生としてマージャンの奥深さを広めている。【取材・構成=堀まどか】

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“大胆発言”で一世を風靡(ふうび)した日本シリーズから30年、加藤さんは先生になっていた。天満橋会館の初級及び「賭けない、飲まない、吸わない」がうたい文句の健康マージャン担当の指導者だ。午前10時から夕方まで、1回20~25人を対象にマージャンを教える。生徒は、趣味や日々の楽しみでマージャンを覚えたいという70~80歳代の女性が多い。

加藤 年配の方とのコミュニケーションは、自信があったんです。自分で自分のことをよく言うわけじゃないけど、見た目ほどとげとげしい人間やなかったんです。始めたのは8年くらい前ですが、自分が50歳手前になって自分の親と同年代の方に対して優しくなれる。相手はお客さんでなおかつ年上で、目上の人という感覚を常に持っているので問題はなかったんです。

しかし、そもそもなぜマージャンの先生なのか? 

加藤 野球やめて、ABC(朝日放送)で働いて、俳優業もやって、やめて飲み屋をやって、やめてお好み焼き屋やって、やめてかつお節の営業やって、そのあとに焼き肉屋の店長やって、そのあとが今です。焼き肉屋をやってたときに仲良くなった方の知り合いに天満橋会館の社長の息子さんがいた。そのご縁です。

野球解説業のかたわら、03年公開の映画「新・仁義なき戦い 謀殺」で、渡辺謙演じる武闘派ヤクザを狙うヒットマンの1人で銀幕デビューも果たした。いろんな仕事をしながら引退後の人生を送ってきたが、近鉄時代に覚えたマージャンが新たな天職になった。

加藤 マージャンそのものがぼくは好きだった。難しいところが面白い。周囲やお客さんは、ぼくが1年か2年でやめるだろうと思ってた。でももうかれこれ8年。だって面白いから。ぼくはプロではないですが、やってるうちにいろんな地域のプロともお付き合いができて、他業界、異業種の方とも。たとえば漫画家、芸能関係、将棋、囲碁の方とも交流ができて全国あちこちに行ってます。

プロリーグの「M・LEAGUE」が発足したり、インターネットで若い世代にもマージャンが身近なものになるなどマージャン新時代にも恵まれた。プロ野球選手としても、加藤さんは時代に恵まれた。

加藤 一番いい時代に野球ができたと思います。阿波野(秀幸、中日コーチ)や小野(和義、西武コーチ)らとパ・リーグが脚光を浴びた時代に野球ができた。そこに加わることができたのも、権藤さんに教えてもらったチェンジアップのおかげだと思います。

プロ5年目の87年、加藤さんは権藤博投手コーチ(野球評論家)と巡り合った。権藤コーチ直伝のチェンジアップは宝になった。

加藤 プロの打者がこんなにももろいものだということを実感できた。いろんな教え方があると思いますが、権藤さんは「150キロの直球を投げられる投手が、130キロの直球をど真ん中に投げるんだ」と教えてくれた。ど真ん中じゃなくちゃ意味がない。打者が手を出さざるをえない場所だから。ボールだと見逃されるし、打者の意識に残らないからです。コースや球種やいろんなことを考えていたけど、チェンジアップのおかげで(西武)秋山さんのような一流打者を崩すことができた。

打倒・西武の野望に燃えた近鉄の先発として強打者に立ち向かえたのも、チェンジアップから得た投球術、自信があればこそ。

加藤 ぼくは7連敗からスタートして、通算65試合目でようやく勝ちがついた。そこからあまり負けてない。肩を痛めて17勝12敗で引退しましたが、チェンジアップのおかげでこの成績を残せたと思います。

試練もあった。89年の日本シリーズ第3戦。ロッテを引き合いに出したのは聞き手の方だった。加藤さんはわざわざ「比較するのは失礼ですが」とことわり「ロッテの方が怖い」とコメントしたにもかかわらず「巨人はロッテより弱い」の言葉が独り歩きした。3連勝で日本一に王手をかけたチームは、第4戦から4連敗。加藤さんはバッシングにさらされた。

加藤 でも、ぼくは感謝しかないと思っています。確かにそうは言わなかったけど、そう取られても仕方のないことを言ったのは自分。あの言葉のおかげで、人の記憶に残ることができた。実績ではるかにぼくを上回る投手より、ぼくの名前を覚えてもらえている。ありがたいことですよ。

不運な曲解が原因のバッシングを恨むより、人の記憶に残ることを喜ぶ。それが加藤さんだった。(敬称略)

▽眼光は鋭いが、口調は柔らかい。丁寧で優しい先生だと思う。「マージャンは本当にすごい時代を迎えてるんやで」と興奮気味に教えてくれたが、同じぐらい熱い口調で語ったのが阪神藤浪のことだった。

仕事の忙しさもあり、以前ほど積極的に野球中継は見ない。それでも野球界の後輩として、藤浪は気になって仕方がないという。「阪神には阪神、矢野監督には矢野監督の事情がある。あくまで個人的な意見」と念を押した上で、加藤さんなりの起用法を語った。

「先発で5イニング、目いっぱい行かせる。たとえ完全試合をやっていても、絶対に5回で代える。そのかわり中4日、もしくは3日で投げてもらう。そういう起用なら、藤浪の力なら年間20勝するんじゃないかな。長いイニングを投げようとペース配分するから、腕がゆるんでコントロールミスを起こす。配分なんていらない。全球、目いっぱい投げろと。今のままではもったいなさすぎる才能ですよ」。やはり野球人だな。そう思った瞬間だった。

◆加藤哲郎(かとう・てつろう)1964年(昭39)4月12日、宮崎県生まれ。宮崎日大から82年ドラフト1位で近鉄入り。83年10月21日の阪急戦で1軍初登板を果たし、88年4月15日の南海戦でプロ初勝利。88、89年は先発ローテーションに入り、89年リーグ優勝に貢献した。右肩痛で成績が下降し、93年に近鉄を自由契約。広島にテスト入団し、94年に1勝を挙げるも、同年秋に自由契約。ダイエーの入団テストに受かったが、1軍登板はないまま95年に現役引退。プロ通算成績は17勝12敗6セーブ。右投げ右打ち。