広島赤松真人外野手(37)が22日、マツダスタジアムで引退会見を開いた。中日24回戦後に予定されていた引退セレモニーは、同カードの中止に伴い、振り替え開催される27日に行われる。質疑応答は以下の通り

- ファンへの報告と今の気持ちを

赤松 15年間、長い間ですけど、あまりこれといった成績を残してはいないですけど、ここまでやれたのはみなさんの声援のおかげ。感謝したい。

-長いとは

赤松 野球をやっているときは、病気になるまでですけど、そこまでは早かった。病気になってからすごく長く感じた。

-引退の決め手

赤松 病気になってからですね。引退は、覚悟はしていました。引退しようと思ったのは、今年に入ってから。出番とか、起用方法が、若手を使わなければならない状況。間隔が空いたときに、パフォーマンスを出せるかといえばそうではなかった。

-何が落ちたか

赤松 反応ですね。ヨーイドンで走ってしまう走塁練習とか、自分のペースで投げる遠投はそこまで落ちていない。とっさのプレー、相手に合わすプレーが0コンマ何秒遅れると致命傷になる。一番、力が衰えた部分。

-もどかしさは

赤松 これは、仕方ないと思う。病気になったからというのではなく、年齢がそうさせた。言い訳するつもりはない

-家族には

赤松 自分ではけっこう前から意識していた。そのときには家族には言わず、球団から言われたときに自分で決断した。タイミングとしてはけっこう遅かった。発表よりはちょっと前ですけど。

-言い出しづらかった

赤松 言えなかったですね。一番、本当に近くで支えてくれたので。言うタイミングは難しかった。

-家族への思いは

赤松 本当ありがたいですね。それまではこだわりがなかったので、食であったり、結婚してから食生活であったり、病気になってからはとくに気をつけてもらったので。

-引退発表後も全メニューをこなし、試合にも出た

赤松 僕がもし1軍の試合に出ることがあれば、投げているピッチャーがいるし、エラーしてしまうと成績に響く、迷惑をかけないように、そこだけですね。

-試合は中止

赤松 僕らしいですよね。本当に(2軍本拠地)由宇の最終戦も雨で中止だったんですよ。今シーズン、マツダ初めての雨の中止と聞いて…。延びたので、またみんなと試合をする試合が増えてうれしい

-阪神時代について

赤松 すごい先輩方がおられた。精いっぱいでした、練習についていくのが。1軍の試合にも出させてもらったけど、無我夢中。周りが見えていなかった。もうちょっとリラックスしていればよかった。

-広島の一番の思い出

赤松 自由にさせてくれた。僕の長所「思い切り」がすべてにおいてよかったので、そこを重視して伸ばしてもらった。阪神のときも伸ばしてもらったけど、思うように動かなかったところがあった。

-ブラウン監督は長打力も評価していた

赤松 レギュラーで毎年3割以上残している選手のすごさが、改めてよくわかった。1軍で2年、3年、レギュラーを張る選手がおられる。まだまだ僕なんてと思った。ある程度の成績はプロ野球に入ったら残せると思うけど、ある程度しか残せなかった。毎年残す選手はすごい。

-10年8月4日の横浜戦の中堅守備で、村田の左中間フェンス越えの打球をフェンスによじ登りキャッチしたプレーについて

赤松 あれは、運だと思います。若い選手ならみんなできるくらいのポテンシャル、運動能力がある。ああいう打球が飛んでくるという(運)。あとは、遊びながら、練習中もフェンスに登る練習をしていた。

-フォア・ザ・チームのスタイルについて

赤松 レギュラーではどうしても、打率、盗塁、そこを求めてしまう。代走、守備になったときに、自分を犠牲にしてチームのためにできるというのを感じられた。

-野球の見え方変わった

赤松 ぜんぜん違う。心から、勝ち負けを喜べる。それまでは個人の成績だったので、自分が盗塁やファインプレーを決めても悔しさがあった。そこが変わった。

-相手投手の癖をメモし、それをチームメートに見せていた

赤松 僕が研究したことを僕が使うより、レギュラーが使うことのほうが多い。チームのためになればと思っていた。

-16年の優勝について

赤松 最高でした。一番うれしかった。

-想像と違ったか

赤松 違いましたね。最後、東京ドーム。レフトを守ってたけど(自分のところに最後の打球が)飛んでこないかと。映像に残ることで名を残したい、映像を残したいと思った。

-17年の優勝は

赤松 17年はやっぱり、申し訳ない感じでした。病気だったので戦っている土俵が違う。みんなは野球で戦っているのに、僕は病気と闘っていた。いて、いいんだろうかと思った。

-野球への思いは変わったか

赤松 生きているだけでいいんだということが、そこがメインだった。野球は二の次ではないですけど、死んでしまったらどうしようもない。ふつうに生きていく、ということを感じた。

-奮い立ったことは

赤松 家族、チームメート、ファン、すべて。そういった方々がおられなければ続けてこられなかった

-一番うれしかったこと

赤松 そうですね…。闘病中ってけっこうきついんですよ、外に出たくないんですけど、後ろにいます、菊池(涼)がうっとうしいくらい連絡してくる。空元気で答えるけど、励みになった。

-会見にきてくれる

赤松 なかなかないですね。本当にすごいですね。ふつうはいたわっててくれるんですけど…、いたわってくれてはいるんですけど、自然に接してくれるんでありがたかった。

-親しみが込められていた

赤松 ふつうに扱ってくれるんで、スムーズに入っていける。そういうのはあった。

-今後のチームに向けて

赤松 僕もシーズンの結果で左右された側。心理的に、今若いやつに、俺といっしょの病気になったらどうやというと、そっちのほうがつらいのはわかる。病気になって、そういうのに気付けられた。野球選手は高いレベルで悩んでいるけど、病気の悩みに比べたらたいしたことない。

-病気後の野球

赤松 楽しかった。ぜいたくな時間でした。病気してプロの世界ではできない。2年半やらせてもらった。

-ファンへ

赤松 長い間、応援してもらってありがとうございます。応援してもらった恩を少しでも返せるように、何かしらやっていきたい。

-家族の反応は

赤松 納得はすぐしてくれた。その後、子どもたちにいうのに時間がかかった、変な家庭の中の空気が流れた。妻に伝えたときはお疲れさまと言ってもらった。よかった。

-長男、次男は

赤松 やめるん? てこれだけです。ずっといっしょにいられるんでしょと言っていた。フリーターの怖さを知らない。

-後悔する部分は

赤松 もちろんありますよ。ありますけど、病気になったことで、気付かされたことのほうが多い。早いうちに病気になってよかった。がんという病気は、年がいってからなりがちな病気と思っている。34歳で見つかった。しかも、プロ野球選手でありながら。ショックだったけど、食事であたりとか、食事改善できたのはよかった。

-同じ病気の人を勇気づけたいと話してきた

赤松 もちろん、携わっていきたい。どうしていいかわからないので、みなさんの力を借りたい。