暗黒時代の助っ人エースが逝く-。阪神元投手のマット・キーオ氏が死去していたことが3日、分かった。球団特別補佐として所属していた米大リーグ・アスレチックスが発表した。64歳。死因は不明。87年に阪神へ移籍した同氏は、入団1年目の外国人としては球界初となる開幕投手を務めるなど、4年間で45勝をマーク。低迷期の虎を支えた。

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海の向こうから訃報が届いた。米大リーグ・アスレチックスは球団の公式ホームページなどでキーオ氏の死去を発表した。64歳だった。球団副代表を務めるビリー・ビーン氏は声明を発表。「彼は偉大な野球人で、球団の誇りだった。彼は信じられないほどの情熱を野球に対して持っていた。彼の野球に対する知識は、大きな助けとなった」と、功績をたたえた。

メジャー9年間で58勝を挙げたキーオ氏が来日したのは、阪神が日本一に輝いた2年後の87年だった。日本では野手がつけることの多い背番号「4」で存在感を発揮。1年目では球界初めてとなる外国人の開幕投手を任され、シーズン11勝を挙げた。その後も3年連続2桁勝利を挙げるなど、在籍4年間で通算107試合に登板し、45勝44敗、防御率3・73と奮闘。チームは6位、6位、5位、6位と低迷したが、虎のエースとして暗黒時代を支えた。

日本との関わりは深かった。父親のマーティ氏は、1968年に南海で内野手として在籍。「15球粘って満塁本塁打」という珍記録を樹立するなど17本塁打をマークしている。当時、家族として日本に滞在していたキーオ氏も、選手として日本でプレー。投手ながら2本の本塁打をマークし、助っ人外国人ではNPB史上唯一の「親子本塁打」を記録している。

阪神在籍最終年となった90年はオープン戦で、打球を処理する際に転倒。足を負傷し、その後は本調子に戻らず退団につながった。帰国後はエンゼルスに所属した92年オープン戦で頭に打球を受け、危篤状態になるほどの大けがで引退を余儀なくされた。飲酒トラブルなどのアクシデントが報じられることが多かったが、05年には阪神からFAとしてアスレチックスと契約した藪恵壹氏の移籍を後押し。タテジマとのつながりを感じさせた。

◆マット・キーオ 1955年7月3日、米カリフォルニア州生まれ。73年にドラフト7位でアスレチックス入団。77年にメジャーデビュー。メジャー実働9年で215試合に登板、58勝84敗、防御率4・17。87年に阪神に移籍。入団1年目に外国人投手として球界初の開幕投手(ヤクルト戦、甲子園)を務めた。投手ながら2本塁打もマークしている。現役時代は188センチ、85キロ。右投げ右打ち。