ロッテに優勝マジック9が点灯した。51年と1週間前に「0」となり消滅したマジックが、令和の夜に戻ってきた。70年10月7日の夜は“光の球場”と呼ばれるオリオンズの本拠地東京スタジアムで、下町のファンたちの興奮が最高潮に達した。半世紀以上の時を超え、当時を知る由もない後輩たちが夢へ近づいていく。

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下町の光のような存在だった。JR常磐線の南千住駅から日光街道をまたぎ、歩くこと10分。荒川総合スポーツセンターがある。北島康介氏が育ったプールも建物内にある。1970年、ここに熱狂があった。ロッテオリオンズの本拠地、東京スタジアム。当時も今も近所に住む大森啓市さん(72)が懐かしむ。

「昔は軍服の工場があったんです。当時の永田オーナーの大号令で、その跡地に球場を造ると。敷地を12ブロックに分けて、工務店が競って突貫工事。11カ月で完成したのかな」

カクテルライトのまぶしい球場だった。周辺に高い建物はほとんどなく、大森さんも「千住大橋のおばけ煙突も見えてね」と回想する。1キロ以上離れた国鉄の線路からも、ナイターの雰囲気が光で伝わった。地下にはボウリング場などがあり、冬にはスケートリンクにまさかの変身。高度経済成長期に大東京の一隅を照らし“光の球場”と親しまれていた。

51年前の10月7日。3万人近いファンが見守る中、栄光をつかんだ。試合終了の瞬間、ファンが次々とグラウンドになだれ込む。オーナー、首脳陣、選手と胴上げしていった-。そんな逸話が語り継がれる。

総務省統計局の人口推計に基づけば、今を生きる6500万人超の日本人がまだ生まれていない。佐々木朗はもちろん、彼の両親さえも。本拠地は川崎に移り、光の球場はやがて取り壊された。モノクロからカラーへ。アナログからデジタルへ。社会は大きく変容したがファンは変わらず温かい。この夜は、遠く大阪にも大勢のファンが集った。歌えない、声を出せないご時世。それでも手拍子と応援タオルでグラウンドに熱を届けた。いよいよ最佳境へ。本拠地ZOZOマリン。風の球場が、その時を待つ。【金子真仁】