今年も東京ドームを舞台に社会人野球の都市対抗野球が開催された。高校野球の甲子園とも、プロ野球のポストシーズンとも異なる、企業の誇りをかけた一発勝負。西武、巨人に在籍し、今季限りで現役を引退した野上亮磨氏(34)は、現在は休部中の日産自動車で3年間プレー。08年には28回目の都市対抗野球出場を果たし、同社から直接プロ入りした最後の選手となった。(敬称略、全2729文字)【久保賢吾】

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08年6月の夜、横浜市旭区の日産自動車のグラウンドでビールかけが行われた。都市対抗野球出場を決めた直後。寮の電気を全てつけ、「NISSAN」マークを付けた1台のヘッドライトに照らされる中、野上はビールを浴びた。

「住宅地だったんで、なるべく静かに。瓶ビール20ケースくらいですぐに終わったんですけど、最高の瞬間でしたね」

社会人3年目。「プレッシャーで言えば、神奈川の予選の方がすごかったですね。前の年は行けなかったですし、決まった瞬間は泣きましたね。ホッとして」。本大会は初戦の三菱重工神戸戦に先発。6回3失点でチームも敗れた。

野上の都市対抗デビューは、1年前の07年。新日本石油ENEOS(現ENEOS)の補強選手として2回戦(対鷺宮製作所)の6回からマウンドに立った。沸き出たアドレナリンは想像を超えた。

「えっ、今、オレ、震えてる?」

気負いや緊張を飛び越え、目標だった東京ドームのマウンドで感じたのは、武者震いだった。

「これが、都市対抗のマウンドなんだな」

妙に冷静なもう1人の自分にも気付いた。

「いいところを見せよう」と意気込んだ先頭打者との対戦。腕を振って投げたボールは、瞬く間に自身の頭上を通過した。スコアボードには出したこともない数値が光った。

「バンって投げたら、痛烈なセンター前。そしたら、156キロって数字が見えて。『えっ』と思ったけど、打球速度だよなと」

無死から走者を許したが、逆に目が覚めた。走者をけん制で刺し、後続2人も封じた。1回を無失点に抑え、チームは敗れた。

「試合も印象に残ってますけど、都市対抗までの1カ月間は財産になりましたし、人生のプラスになったと思います」

各都市を代表して戦う都市対抗野球は、予選で敗れた同地区のチームから選手を〝レンタル〟できる補強選手制度がある。野上は新日本石油ENEOSの元横浜(現DeNA)大久保秀昭監督、元日本ハムの高橋憲幸投手コーチからアドバイスを受け、普段はライバルだった選手からも技術論やメンタル面、考え方などを聞いた。のちにレッドソックスで活躍した田沢純一とも同じ時間を共有した。

「一番、驚いたのは田沢さんの練習量です。めっちゃ練習されてて、こんなにやってるのかと」

入社1年目だった06年、日産自動車はのちに広島入りした青木高広投手、横浜入りした高崎健太郎投手ら先輩社員の活躍で都市対抗野球準優勝を達成した。

野上の登板はなかったが「すごいなーって思いながら、見てましたね。僕よりも10歳以上年上の先輩が必死になって、プレーされていて、そこまで熱くなれるんだと。衝撃でした」。

1球、1プレーに社員も詰め掛けたスタンドが一喜一憂する。闘志あふれるプレーが随所に繰り広げられた。「いつか、自分もこのユニホームを着て、投げたいなと思った」。

夢をかなえた08年。ドラフト2位で西武に指名され、プロへの扉を開いた。春季キャンプがスタートした09年2月。衝撃的なニュースをキャンプ地で聞いた。年内を持って、野球部が休部されることが発表された。

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「最初に休部と聞いた時は、そんなことないでしょと。信じられなかったですね」

野上も所属した08年シーズンは都市対抗、日本選手権に出場。優勝は逃したが、09年シーズンに向け、準備を進める中での突然の発表だった。

日産自動車の伝統、重みはプロ入り後に感じた。1年目の時、社会人出身の球界関係者から「日産魂だな」と声を掛けられた。

「他のチームとはちょっと違うらしいんです。練習試合とかで来ても、バスから選手が出てきた瞬間にちょっと空気が変わると」

神村学園(鹿児島)3年時に練習見学した時を思い出した。「日産九州」からオファーが届いたことを伝え聞いたが、すぐに本社からだったことが判明し、練習見学を即決した。

「本社って、どこにあるんですか?」

「銀座だよ」

「行きます(笑い)」

九州生まれ、九州育ちの18歳は夢見心地で飛行機に搭乗し、神奈川にある日産自動車のグラウンドに向かった。

「すげぇ…。何だ、これは」。

見たこともないような速さでボール回しする先輩の姿が目に飛び込んだ。〝銀座〟は頭から消え、のちに広島入りした梵英心、横浜入りした三橋直樹ら、アマチュア球界の一流選手のプレーに興奮した。

「野球を続けるなら、社会人でと。大学に4年行くなら、社会人から3年でプロを目指そうと思っていたので、日産でお世話になろうと決めた」

日産自動車での3年間で、野球のノウハウをたたき込まれた。1日練習の日は、午前中は守備練習で終了することはざらで、投内連係やゲーム形式の守備練習に1時間以上かけることも普通だった。

「練習方法もそうですし、野球のスピード感だったり、間の取り方だったり、勝つためのテクニックとかを教わった」

飛び抜けたスター選手はいなくても、各自が役割に徹し、チーム力を結集する戦いがスタイル。

「もちろん、めっちゃ厳しかったですよ。でも、社会人、野球人としての心構えを学んだのも日産ですし、今の自分があるのはそのおかげです」

社会人野球の名門の1つだったが、12年たった今も休部の状態は続く。

それでも、各選手に「日産魂」は刻み込まれ、現在もOB選手たちによる野球教室が開催される。アキレス腱(けん)断裂の手術を受けた19年も、野上は松葉づえをつきながら参加した。

「復活してほしいですね。今でも、OBみんながそう願っていると思いますよ。自分にとっては特別なチームなので」

今季限りで引退し、日産自動車から直接プロ入りした現役選手はいなくなった。元チームメートで先輩の四之宮洋介からは「お疲れさま」とねぎらわれ、当時の監督で現在はJR東海で指揮を執る久保恭久監督からも「よく頑張ったな」とたたえられた。

「日産への思いは、ずっとあります。今、チームは休部中ですけど、その思いは一生変わることはないです」

OBの現役選手は、休部後に王子製紙を経て西武入りした熊代聖人の1人になった。今年から日産茨城が新たに社会人野球チームとしての活動を開始した。【久保賢吾】