<日本ハム5-4西武>◇6日◇札幌ドーム

 北の大地に大輪の花を咲かせた。日本ハム梨田昌孝監督(56)が3度、宙に舞った。就任2年目でリーグ優勝に導いた。シーズン半ばにインフルエンザ禍に見舞われ、主力選手が離脱するアクシデントも乗り越え、7月20日に首位に立ってから、1度も譲ることなく、ゴールした。梨田監督にとっては近鉄時代の01年に次いで2度目の優勝を劇的なサヨナラ勝ちで決め「ファイターズのファンは宇宙一」と叫んだ。日本シリーズ出場権をかけ、クライマックスシリーズ(CS)第2ステージで、第1ステージの勝者と対戦する。

 余韻を楽しむかのように、ゆっくりとした足取りだった。梨田監督が、マウンドに広がる選手の輪へと向かう。「重かったんでね。もうちょっと高く上がりたかった」。3度、低空飛行の胴上げに全身を預けた。8月下旬に点灯した優勝マジックを1カ月以上かけて、完全に消した。近鉄監督だった01年以来、8年ぶりのペナント奪還を果たした。その時も逆転サヨナラ勝ち。「すんなり勝たせてくれんなぁ」と、懐かしい感覚がフラッシュバックした。

 日本ハム監督就任の打診が届いたのは07年。ヒルマン監督の後任としての誘いだった。「孤独やね。監督っていう仕事は孤独やと思うよ。そりゃあ、しんどいところもいっぱいあるし、いいことばかりじゃない。でも、好きなことをやらせてもらっている」。決意を固め、北海道へと飛び立った。

 タクトを振って2年目、悲願は成就した。理想とする監督は選手として才能を見いだしてくれた近鉄で監督を務めた西本幸雄氏(89)。日本ハム監督就任が決まった時、1着の古びたユニホームが旧知の近鉄スタッフからプレゼントされた。背番号は68。西本氏が監督時代にまとっていた20年以上も前のものだった。そのスタッフから「西本野球を貫いてください」と渡され、梨田監督は感動したという。勇気をもらい、大役を受けた。

 補強資金が潤沢ではないチーム運営を理解し、現有戦力を伸ばした。今季躍進の象徴になった糸井ら現有戦力を起用しながら、育てた。戦力が急激に低下した8月中旬のインフルエンザ禍。最少でベンチ入り選手12人で臨んだ苦難も襲った。「あのときはちょっとこたえたよね」と明かした。「あまり、ないものねだりをしないタイプ。(幼少時から)おもちゃ売り場とかで泣いている子供とか見たら『こいつバカじゃないか』と思う方だったから。子供の時、なんでこいつ泣いているんだろうってね」と自分を分析する。

 15歳で父を亡くした。新聞配達をして家計を助け、友達と遊ぶためのスキー板は、自分で作った。青春時代から培ってきた人間力で難役をまっとうし、常勝球団の系譜をさらに伸ばした。梨田監督が就任以来、サイン色紙に必ず添えてきた言葉がある。「夢と大地」。北の大地に、大輪の夢が咲いた。【高山通史】

 [2009年10月7日8時7分

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