宮古人だから、絶対負げねえ。そう語るのは岩手・宮古商業高校野球部の沢田靖永(のぶひさ)監督(36)だ。19年前、宮古高野球部の主将だった沢田さんは、センバツ大会開幕試合で松井秀喜(36=現アスレチックス)率いる星稜と対戦。大敗したが、試合前の攻守を決する主将同士のじゃんけんでは「パー」で勝っていた。宮古商で采配をふるって8年目。震災を乗り越えて“松井に勝った男”が今夏、指揮官として初の甲子園出場を本気で目指している。

 25日午前11時、沢田監督がチラリと腕時計を見た。春季県大会の決勝が始まって1時間が経過していた。言葉にはしなかったが、表情には悔しさがにじむ。

 昨年の同大会では、今回優勝した花巻東と互角に戦ったがサヨナラ負けした。昨年の秋季県大会では8強だった。「正直、甲子園も狙える」と沢田監督は話す。だが、3月11日の震災でグラウンドには亀裂が入り、バント処理の練習ぐらいしかできなかった。5月15日の春季沿岸北地区予選の初戦(対岩泉)は1-8で8回コールド負けを喫した。「目指せ、甲子園」以前にチームが崩壊しかけた。

 宮古商ナインは今も震災の影響に四苦八苦している。津波で家を流され避難所生活をする部員もいる。JR山田線の宮古-釜石間(55・4キロ)は現在も不通で、バス通学しかできない。朝の練習では全員がそろわず、通常も午後6時で帰宅しなければならない。

 沢田監督

 オレらは「宮古人」なんだ。どんなにツラくても、海の風に当たって体も心も鍛えられた。絶対に負げね、って気持ちだけはどこにも負げねえ。

 この言葉も選手の前では口にはしていない。震災から1カ月は「野球、やってていいんだべか」と練習にならなかったという。そんなナインに沢田監督は冗談めかして、松井に“勝った”話をしたという。92年3月、宮古高校は30年ぶりにセンバツ出場を果たし、開会式直後の開幕試合で対戦し、松井に2本塁打を浴びて3-9で完敗した。だが、試合前の攻守を決める主将同士のじゃんけんで、沢田監督は「パー」を出して後攻を選んだ。

 沢田監督

 投手の数もそろった。打線も悪くない。ただ、最後の粘りが足りない。たかがじゃんけんだけど、勝つことにこだわらないといけない。

 震災時は教職員、生徒は地割れしたグラウンドに緊急避難した。高台にある宮古商から宮古漁港のある海が見えていた。もんどり打つ津波に町がのみ込まれるのを見守るしかなかった。

 沢田監督

 今回の震災はとってもつらいことだった。野球部も春季大会の地区予選で大敗して傷ついた。でも、逆に課題が見つかった。考えて弱点を強化する練習法に変わった。震災を理由に負けたとはいいたくない。宮古人だかんね。

 松井の活躍は刺激になる。「移籍、故障があっても現役でやっている。それも米国。負げてらんねぇ」。震災の苦難を乗り越え、夏の巻き返しへ、生徒と一体となって野球に打ち込む。【寺沢卓】

 ◆第64回センバツ大会初日第1試合(92年3月27日)

 星稜9-3宮古。当日は阪神電車のストも重なり、試合開始の宮古の応援スタンドはガラガラだった。甲子園はこの大会から外野のラッキーゾーンが撤去され、現在の広さになって初めての公式戦だった。宮古エース元田はアンダースローからテンポよくストレートで松井を追い込んだものの3、5回に3ラン本塁打2本を浴びてしまった。元田は松井対策としてシンカーを秘密兵器として持っていたが、直球勝負にこだわる頑固な“宮古人”らしさを見せた。松井のニックネームである「ゴジラ」が定着した試合になった。