<日本ハム3-4西武>◇27日◇札幌ドーム

 偉大なOBの追悼試合を白星で飾れず-。日本ハムは西武戦で競り負け、連勝は5でストップした。前身の東映時代に投手として活躍し、24日に他界した元監督の故土橋正幸氏(享年77)に手向けの勝利を贈ることはできなかった。ヤクルト時代の教え子、栗山英樹監督(52)は故障明けの西川を初めて一塁に入れるなど大胆な起用を見せたが、政権下初の6連勝はならなかった。今カードは残り2戦も喪章をつけてプレーする。

 鎮魂、手向けの1勝は少しだけ遠かった。栗山監督は思い詰め、沈んだ心を隠さなかった。人知れず、土橋氏への思いを込めた。感慨いっぱいで挑んだが、接戦を落とした。「勝たなければいけない試合だった。オレが悪いよね」。わずか1点ながら2度リードを奪った。采配でしのごうとしたが、かなわない。力を振り絞ったが、無情だった。

 祈りをささげた。試合開始前。土橋氏の姿が、札幌ドームの大型ビジョンに映し出された。じっと焼き付け、瞳を閉じた。黙とう。走馬灯のように、思い出がよみがえってきた。「プロ初スタメンは一生忘れることができない。3安打した。あれがなかったら、今はなかったかもしれない」。もう遠い記憶。3安打したのはプロ3年目で、実際は2試合目の先発出場。86年5月31日広島戦(平和台)。土橋氏に「1番左翼」で抜てきされた一戦がフラッシュバックした。両目は少し潤んでいた。

 築いてもらった源流に、従った。江戸っ子かたぎの恩師が乗り移ったかのようだった。小気味良く、大胆にタクトをふった。先発メンバー構築に、大一番への熱意があふれた。1番に西川を起用。左前十字靱帯(じんたい)付着部剥離骨折で約2カ月半離脱していた3年目。野球人生で初めてという一塁で投入した。野手では右翼専門の大谷を左翼へ回し、捕手の近藤をその右翼へ配した。稲葉を2軍降格させて迎えた初戦。信じる若手で立ち向かった。

 戦局を丹念に動かしていった。逆転した直後、1点リードの7回。1死一塁で、好投の木佐貫の降板を選択した。背中を押してくれた1人が、ヤクルト時代に同じく才能を見いだしてもらった阿井ヘッドコーチ。同コーチは2年目に2軍戦で自身10連敗した。捕手転向も勧められた3年目。資質を認めていた土橋氏に初の開幕1軍切符をもらい、台頭できた自負がある。「土橋さんにはスピリッツがあった。だから今、ユニホームを着ている」。

 そんな2人で決めた継投の一手。2番手石井が、結果的に浅村に逆転弾を許して裏目に出た。試合前の札幌ドーム周辺は珍しい荒天。スコールのような一時的な豪雨になった、涙雨のようだった。稲光が走り、雷鳴もとどろいた。現役時代。何度もカミナリをもらって、芽を伸ばしてもらった土橋氏のゲキのように-。「今は結果がすべて。勝てるようにやっていく」。誰よりも勝負に固執した師の姿がダブった。残り34試合。栗山監督があらためて全力で、完走を誓った。【高山通史】

 ◆栗山監督と土橋氏

 栗山監督がプロ1年目の1984年(昭59)5月22日、武上監督、中西監督代行の後を受けて投手コーチからヤクルト監督に就任したのが土橋氏だった。ドラフト外で入団した栗山監督は、同年10月8日の大洋戦(神宮)で9回に遊撃の守備に就きプロ初出場。翌85年からは同氏の進言もあり、俊足を生かした両打ち、外野手に転向した。同年10月5日の大洋戦(神宮)に「8番右翼」でプロ初先発し、3打数1安打。土橋氏のヤクルト監督最終年となった86年後半から「1番中堅」としてレギュラーに定着し、この年は出場107試合で規定打席には満たなかったが、打率3割1厘をマークした。