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2010年10月12日

小関順二のドラフト日記(10・4~10)

甲子園終了後全日本の一員にも選ばれた東海大相模・一二三

 ◇10月4日(月)自宅

 日本高野連のホームページに掲載されている「プロ野球志望届提出者一覧」(以下プロ志望届)に、旭川実の右腕・成瀬功亮(右右・182-81)の名前が載っていた。

 甲子園大会3日目の第4試合、旭川実-佐賀学園戦には、“下馬評に上がったプロ注目選手”がおらず、辛抱強いスカウトもさすがに4回終了頃には荷物をまとめて球場をあとにしていた。そんなとき、成瀬はリリーフのマウンドに立った。

 ピッチング練習を始めたときからただ者でないと思った。始動から投げたボールがキャッチャーミットに届くまでのタイムは1・9~2・3秒台。非常にゆったりとしている。ボールを持つ右腕が背中のほうに入らず、それでいてゆったり大きく腕を振り、ヒジの立ちも十分。これらの動きは好投手の条件といってもいい。

 ストレートの球速は最速で145キロと速く、変化球は128キロ程度の横スライダーがあり、縦系の変化球がほしいところだが、北北海道大会で1回2/3しか投げていない投手に過重な要求をしても仕方ない、と思ったところで、どうしてそれくらいしか投げていないのか不思議に思った。どこからどう見ても「超高校級」の形容がつく投手なのだ。

 この試合、3回2/3を投げて被安打2、奪三振3、四死球0、自責点1と成績は目を引かないが、コントロールに安定感があり、一塁ゴロのときのカバーリングやバント処理などのディフェンス面もいい。成瀬以外でも道内には又野知弥(北照・投手→外野手・右右・187-84)、上田昌人(武修館・投手・右右・183-80)、平田晃基(白老東・投手・右左・186-75)と、既にプロ志望届を提出しているドラフト候補が3人いる。北海道を本拠地にする日本ハムが彼らをどう評価しているのか興味深い。

 ◇10月5日(火)自宅

 10月3日付けの日刊スポーツ紙には、東海大相模のエース・一二三慎太(右右・184-85)が今月4日以降にプロ志望届を提出するのでは、と書かれている。期待されたセンバツ初戦で敗退し、それが尾を引いたのか夏前にはオーバースローからサイドスローにピッチングスタイルを変え、夏の選手権では見事チームに準優勝をもたらした。

 準優勝をもたらしたが、上手から横手へのフォーム改造は多くの野球関係者の首をかしげさせ、私もかしげた。たった1回の敗戦で、それまで百点満点だったオーバーハンドを、技巧派を象徴するサイドハンドに変える気持ちがどうしても理解できないのだ。

 たとえば、牧田和久(日本通運・右右・178-78)のような芸術的と言ってもいいアンダースローを会得したのなら、その投球フォームに適性があったと判断していいが、一二三のサイドスローにはそこまでの完成度がない。突っ立ち投げで、左肩の開きが早く、コントロールもかなり粗い。それでも一二三はサイドスローを捨てない。

 東海大へ進学したほうがいいのか、プロへいったほうがいいのか、それは誰にもわからないが、「自分の投球フォームにはこだわりを持ったほうがいい」。

 これは私ではなく、東海大のエース・菅野智之が知人に伝えた言葉である。こだわりを持ったほうがいいフォームが上か下か、一二三の場合はそれが問題なのだが。

 ◇10月6日(水)全生園

 家から近い全生園に行った。12月26日まで開催されている「『全生病院』を歩く -写された20世紀前半の療養所-」という企画展を見るためだ。全生園とは不治の病、業病と恐れられたハンセン病(らい病とも言う)患者の隔離施設のことで、人家から離れた広大な土地の中に患者を押し込めることによって伝染病であるハンセン病を絶滅させようと、およそ100年前(1907年頃)に執られた政策の中から生まれた。

 結婚しても子どもが生まれないように男性には断種手術が施され、料理、洗濯、大工・畑仕事、道路工事、患者の世話などは症状の軽い患者が安い賃金でやらされた。脱走すれば分厚いドアで閉ざされた、光も入らぬ狭い「重監房」に押し込められ、寒さなどのために多くの人が死んだという。この隔離政策、いわゆる「らい予防法」は、驚くことに今から14年前の1996年まで続いている。47年(昭22)には特効薬のプロミンが登場しているにもかかわらずだ。

 なぜ、全生園のことを書いたのかというと、ハンセン病をテーマに多くの文学作品を書いた北條民雄がここに隔離され、死んでいるからだ。代表作『いのちの初夜』(高松宮記念ハンセン病資料館発行)の巻末にある年表には、死ぬ10カ月前の37年(昭12)2月中旬、全生園の自室で正岡子規の『墨汁一滴』『仰臥漫録』を読み暮らしていたとある。

 子規は近代俳句を提唱した著名な俳人・歌人で、結核で35年の生涯を閉じている。その晩年、寝たきりの状態で書いたのが『墨汁一滴』と『仰臥漫録』で、子規の晩年の不幸が民雄の慰めになったのだとしたらあまりにも悲しいが、2人には病気以外にも共通項があった。「野球」である。

 民雄の生涯を描いた『火花』(高山文彦著、飛鳥新社)には次のような文章がある。

「たしかに民雄はここで暮らし、収容病室から解き放たれるや原稿用紙の枡目を埋めようともせず、野球チームのメンバーに誘われるままグラウンドに飛び出して、白球を追いかけていたのだ。尋常小学校のころから野球をはじめ、亀戸の日立製作所の工場で働いていたときも野球部に属していたから、プレーはほかの患者たちよりも洗練されていて、『俺がやる、俺がやる』としゃしゃり出て、ピッチャーでも一塁手でも難なくこなしてみせた」

 民雄の野球好きは前出の年表にも記されていて、34年(昭和9)5月18日の日付には「病はまだ軽く、若い患者仲間と野球プレイに熱中した」とある。

 16時30分にハンセン病資料館を出て、桜並木の資料館通りをまっすぐ行くと、民雄が野球に興じた野球場がテニスコートの向こうにあり、そこでは地元の中学生らしき5、6人が投げて打つだけの野球に興じていた。

 ◇10月7日(木)千葉県野球場→市原臨海球場

 秋季千葉大会準々決勝、千葉経大付-千葉明徳戦を見ようと千葉県野球場、通称天台球場にきたが、10分遅れた。見たかった選手は千葉明徳の右腕、鈴木康平(右右)。しかし、スタンドに入ったとき耳に聞こえたのは鈴木の降板を告げるアナウンスだった。スコアボードを見ると千葉経大付が初回に7点を入れていた。あとでスカウト氏に聞くと、脇腹を故障しているとのこと。この日の最速は127キロだった。

 このあとも千葉経大付は得点を重ね、終わってみれば21-2と大差がついていた。もちろん、5回コールド勝ちである。天台に居続けて第2試合の千葉英和-木更津総合戦を見るか、市原臨海球場まで行って専大松戸-成田国際戦を見るか迷ったが、一緒に観戦した日刊スポーツ「ふくださん」の知り合いでA紙のK記者が市原に行くと聞き、車に同乗させてもらうことにした。

 専大松戸の先発は上沢直之(右右・187-86)。この選手は期待を裏切らない。相変わらずアウトローへのストレートが正確で、キレ味も抜群。最速は142キロとネットなどで紹介されているが、本人はスピードには無頓着である(最速は143キロらしい)。

 これほどの投手が中学(松戸一中)時代は部活の軟式でプレーし、目立った存在でなかった。どんな投手だったのと本人に聞くと、「コントロールが悪かったです」と言う。それがわずか2年足らずで矯正され、スカウトの注目を集める存在になりつつある。

 変化球はカーブ、スライダー、フォークボール、チェンジアップがあり、上沢が一番自信を持っているのがスライダー。始動から、投げたボールがキャッチャーミットに届くまでのタイムは2秒以上とゆっくりで、「ゆるいフォームから速いストレートがきたら打ちにくい、とバッターが言っていたので」と取り組むきっかけを話し、それも含めて目標にしているのは唐川侑己(ロッテ)だと言う。流れの途絶えない受け答えに感心した。

 試合は専大松戸が3、5、6回に得点を重ね、投げては上沢が4安打に抑え、8-0で7回コールド勝ちした。試合後は再びK記者の車に同乗させてもらいJR五井駅まで行き、内房線で蘇我、京葉線に乗り換えて新木場、さらに有楽町線に乗り換えて月島まで行き、「ふくださん」と、友人の服部さんが合流して焼酎を11時過ぎまで飲んだ。

 ◇10月8日(金)自宅

 昨日、高校卒新人の筒香嘉智(横浜・1年目19歳)が阪神戦で久保田智之からホームランを打った。プロ(1軍)初安打ということで、日刊スポーツは3面で大きく取り上げている。負けた阪神はCSでの本拠地開催を懸けた激しい2位争いを巨人と演じているので、若手の力試しなどと悠長なことは言っていられない。そういう試合でチームの勝利(横浜2-0阪神)に貢献するソロホームランを放っているのだから評価してもいい。

 この試合、阪神とは対照的に横浜は若手を多く起用している。野手は筒香を筆頭に石川雄洋(6年目24歳)、松本啓二朗(2年目24歳)、下園辰哉(4年目26歳)がスターティングメンバーに名をつらね、起用された投手は、3人のうち2人が高崎健太郎(4年目25歳)、山口俊(5年目23歳)と若手が2人。チームは来年、住生活グループが親会社になると言われているので、新しいオーナーにチームの可能性を示したということだろう。こういうことをもう少し早くやってもよかった。

 ◇10月9日(土)昭島球場→西武ドーム

 先日、知り合いのスカウト氏から足立学園の2年生エース、吉本祥二(右右・186-75)が良いと教えてもらった。スカウト氏は「とにかく格好いい投手ですよ」と言う。そこまで言われたら雨が降ろうと行かなければならない。

 一塁側スタンドから見た吉本はなかなか魅力的だった。上げた左足が軸足の後ろに回り込まないので、上半身に不必要なねじりが生まれず、真正面に体を向かわせることができる。この方向性の正しさこそ好投手の条件と言ってもいい。また、リリースのときボールをしっかり抑え込んでいるので、ボールが出ていく角度がダラ~ンとならず、鋭角に出ていく。

 こういう美質が実戦のときより投球練習のときほど発揮されるのは残念だが、潜在能力の高さには太鼓判を押してもいい。雨脚が強くなった6回にコントロールを乱し、押し出しの四球を与えたところで降板。試合はこの回の6失点が致命傷となって1-8で東亜学園に敗れた。

 吉本の降板と同時に球場を出て西武ドームに向かう。球場はクライマックスシリーズの1回戦を見ようと3万3000人以上の観客で溢れていた。両チームの先発、ロッテ成瀬善久と西武涌井秀章は同じ高校に在籍していた1学年先輩と後輩。横浜高校の野球偏差値の高さには驚かされるが、涌井の同級生には石川雄洋(横浜)もいる。通り一遍の取材では、人材輩出のメカニズムには到達できないだろうと思った。

 この成瀬を8回途中、涌井を8回限りで降板させたところからゲームは大きく動き始めた。ロッテは内竜也、伊藤義弘、西武はシコースキー、小野寺力、岡本篤志を注ぎ込んで防戦に努めるが、消火活動は思うようにいかない。試合を決めたのは延長11回、福浦和也(ロッテ)が放った勝ち越しソロホームランだった。

 それにしても、リリーフを出せば出すほど傷口が広がる一方というのが今の西武の実情。ドラフトでリリーフ投手に適性のある大学生投手を獲得しないと、来季も終盤で苦労することは目に見えている。ロッテも小林宏之の衰えで不安を残すが、この日登板した内が好素質の片鱗を見せ、将来に楽しみを残した。西武にはそういうリリーバーがいない。

 ◇10月10日(日)神宮第2球場→西武ドーム

 神宮第2球場に行って明大中野八王子-八王子の東京大会2回戦を見る。それにしても、明大中野八王子とは変わった校名である。地名が中野と八王子、2つ入っている。アメリカの女優、アンジェリーナ・ジョリーみたいなもんか。

 その明大中野八王子で一番よく見えたのが2年生の上西達也(中堅手・左左・174-70)。第2打席の2点タイムリーは始動を遅らせた分、コンパクトな振りで低めの球を捉えて中前に弾き返したもの。ただ、第3打席は早くもなく、遅くもない始動だったので、第1打席は「遅らせた」のではなく、たんに「遅れた」だけなのかもしれない。

 この試合を6回で切り上げ、昨日同様、パ・リーグのクライマックスシリーズを見るため西武ドームに足を運んだ。昨日より観客は入っていたのではないか。閑古鳥が鳴いていた時代を知っているので、両チームの華やかな応援を見ていたら泣けてきた。東京ドームを本拠地にしていた日本ハムは無料チケットを随分配ったというが、それでも客は来なかった。チケットがタダでも来ない時代があったことを若いファンには知ってもらいたい。

 さて、この日も西武はリリーフ投手で負けた。先発した岸孝之を7回限りで降板させ、岡本篤志、長田秀一郎、小野寺力と注ぎ込むが、スキのないロッテ打線を完全に封じ込めるのは難しい。ここでは小野寺に注目した。

 リリーフした10回は3者凡退に抑えている。リリースでボールを潰し、低めに「これがあの小野寺か」という伸びのあるストレートを連発。今日はいいかと思ったが、11回に入ると潰せなくなり、ボールは中途半端な高さに浮き出す。井口資仁に打たれた決勝タイムリーはそういう球だった。

 この日も最速は150キロに達したが、なまじ速いためピンチを背負うとストレートに頼ったピッチングをする。また、アウトローのストレートを「ボール」とジャッジされ不服そうな顔を見せたが、アンパイアの気持ちの中に「小野寺はコントロールがよくない」という思いがあるので、どうしてもジャッジは厳しくなる。これからやらなければいけないことが、この試合では多く見つかったのではないだろうか。

※次回は19日掲載予定

ドラフト2010
小関順二(こせき・じゅんじ)
 1952年生まれ、神奈川県出身。日大芸術学部卒。会社勤めのかたわら「ドラフト会議倶楽部」を主宰。本番のドラフト会議直前に「模擬ドラフト会議」を開催し注目される。その後スポーツライターに転身。アマチュア野球を中心に年間200試合以上を生観戦。右手にペン、左手にストップウォッチを持って選手の動きに目を光らせる。著書に「プロ野球問題だらけの12球団」ほか多数。家族は夫人と1女。
矢島彩(やじま・あや)
 1984年生まれ、神奈川県出身。5歳くらいから野球に夢中になり、高校時代にアマチュア野球中心に本格観戦を開始。北海道から沖縄まで飛び回り、年間150試合を観る。大学卒業後フリーライターに。雑誌「アマチュア野球」(日刊スポーツ出版社)などに執筆中。好きな食べ物は広島風お好み焼きと焼き鳥(ただしお酒は飲めません)。趣味は水泳。
福田豊(ふくだ・ゆたか)
 1962年生まれ、静岡県出身。85年日刊スポーツ新聞社入社。野球記者を11年。巨人、西武、日本ハム、アマ野球、連盟などを担当。野球デスクを7年勤めた後、2年間の北海道日刊スポーツ出向などを経て、現在は毎朝6時半出社で「ニッカンスポーツ・コム」の編集を担当。取材で世話になった伝説のスカウト、木庭教(きにわ・さとし)さん(故人)を野球の師と仰ぐ。「ふくださん」の名前でツイート中。

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