最初に注目されたのは11年秋場所前だった。3場所目の序二段が、貴乃花一門の連合稽古で前頭大道に4連勝し、貴乃花親方(元横綱)が「将来の横綱」と絶賛した若三勝、今の照ノ富士のことだ。

 当時は元横綱2代目若乃花の間垣部屋だった。間垣親方は元横綱隆の里と青森から夜汽車で上京した。照ノ富士は逸ノ城と同じ飛行機で日本に来た。隔世の感だが、新時代の2人は横綱になれるか。

 先に脚光を浴びたのは逸ノ城も、照ノ富士が抜き返した。北の湖理事長(元横綱)は理由の1つに師匠の番付を挙げる。「横綱を張った親方は苦しさを知っている。言い方も違う。言われた分、伸びている」。

 伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)は持病をかかえながら横綱になった。昇進後優勝は1度で短命も、師匠としては厳しい指導で日馬富士ら関取6人を育成。照ノ富士は幕下で足踏みしていたが、移籍して開花した。

 昭和の横綱は40人いるが、師匠が元横綱は12人で、大関の10人を上回る最多だ。あとは平幕7人、関脇6人、小結5人と差がある。逸ノ城は湊親方(元前頭湊富士)の直弟子第1号関取。温厚な親方が鬼になって、理事長を見返せるか。【河合香】