必死に笑顔を取り繕うとしていた。それでも、心の中は怒りに震え、悲しさのあまり、泣きじゃくっていた。

 大相撲の夏巡業が佳境に入っている。久々の相撲人気を反映して、どの会場も満員御礼の盛況ぶりだ。本場所同様、やっとのことでチケットを入手したファンも多いだろう。それも地方巡業とあれば、年に1日、巡業ならではの力士を至近距離で見ることができるチャンス。記念撮影にもサインにも、力士は気さくに応じてくれる。だからファンが熱狂するのも分かる。ただ、それが度を超してしまっては、お互いが悲しむ結果になる。

 「これですよ。見てください」。悲しそうな表情でそう話すのは、十両の天風(26=尾車)だった。見れば、化粧まわしに付けられた黒いサインペンの跡。今月11日に開催された山形・上山市巡業の支度部屋で、普段は愛嬌(あいきょう)たっぷりに報道陣へのリップサービスには事欠かない天風が、うなだれていた。ファンへのサービス精神も角界屈指の旺盛な男が…。

 聞けば今巡業中、十両土俵入りに備え会場入りし、ファンが求めるサインに応じている際に、押し寄せるファンが持つサインペンが、化粧まわしに触れて付けられたという。もちろん、そのファンが故意に、落書きしたのではない。弾みで起きたアクシデントだ。それは分かっているが、関取の象徴ともいえる化粧まわしに、もう消しようもない痕跡を付けられた当事者としては、たまったものではない。

 「関取にとって命なんです。お金には換えられない、世界に1つしかない逸品なんです。応援してくれる、いろいろな人たちの思いが、この化粧まわしに込められているんです。ファンの人には気持ちよく相撲を見て『ああ、来て良かったな』と思って帰ってもらいたい。だから自分たちは、握手でもサインでも写真でも、気持ちよく応じているんです。お互いに、いい気持ちのまま、お別れしたいんですよ」

 悲痛な心の叫びの、ほんの一部分だ。1本100万円するといわれる化粧まわしだが、お金の問題ではない。それでも、ファンあっての相撲界をわきまえている天風は、こんな悲しい出来事があっても、ファンの求めには応じるという。ただし、化粧まわしを締めているときのサインだけは応じない、という。

 実は、化粧まわしにサインペンの跡を付けられた、この手の「被害者」は、天風にとどまらず何人かいる。その中には、もうファンサービスには応じたくないという力士もいると聞く。人気があるのは喜ばしい限り。ただ節度だけは、わきまえたいところ。力士はアイドルとは違う。相撲には「粋」の良さがある。その分別はファンにも求められる。【渡辺佳彦】