土俵人生の岐路に立たされている男がいる。三役を13場所務め、三賞も10回受賞。相撲巧者として名をはせ、14勝1敗で白鵬との優勝決定戦に臨んだこともある。華やかに彩られた土俵人生。どんな相手にも攻略の糸口はある、と思いをめぐらせても、今度の相手ばかりは立ち向かおうにも目に見えない。あらがいようもないコロナ禍の中、救いは財布にしのばせた22円が入ったポチ袋だ。

東十両11枚目で臨んだ今年1月の初場所。4勝11敗と負け越し、2度目の幕下陥落が決定的となった豊ノ島(36=時津風)は1つの決断を迫られた。「やりきった」。現役引退-。腹は九分九厘、固まっていた。そんな、かたくなな決断を翻意されたのは、一粒種の長女希歩ちゃん(7)の言葉だった。幕下に陥落すれば、無給生活になる。2年前に一度、幕下陥落した際の切り詰めた生活から、驚くことに口で伝えなくても幼心に、そのことは分かっていたという。「ゴメンね、お相撲さんをやめるよ」。千秋楽の夜、そのことを伝えると希歩ちゃんは、泣いてしがみついて言った。「お相撲が嫌いになったの? 普通のお父さんになっちゃうのはイヤ!」。さらに無給生活になることを伝えると「私が貸してあげる!」。涙でくしゃくしゃになった愛娘の顔を、まともに見られなかった。

「本当に最後になるんだったら、この子に最後の姿を見せないといけない。親も呼びたい。でも、それをしてないじゃないか」-。東京開催の初場所に家族を観戦に呼んでいなかった。現役続行の理由は他にもあったが、沙帆夫人ともども家族の熱意に土俵際で、うっちゃられた。現役続行を伝えると、2人とも泣いて喜んでくれたという。

4勝3敗でも番付運次第で関取復帰となる春場所は、同時に家族を呼んで進退をかける場所にする-。そんな思いは無観客開催で、あっさり打ち砕かれた。東幕下2枚目から関取復帰を目指した本場所の土俵も、2勝5敗と負け越し。「幕下で負け越して1つの決断をする時なのかなと思う」。最後の7番相撲を終えた後、豊ノ島はそう語った。 初場所後には、わらいながらこんなことも明かしてくれた。「ウチの娘はさあ、何かタニマチ気質みたいなところがあるみたいでね」。1年ぐらい前だったか…と記憶を巡らせて明かしたのは、いい相撲で勝って帰宅した時、よほどうれしかったであろう希歩ちゃんから「これ、あげる」と、ポチ袋を渡されたエピソード。中身は1万22円が入っていたという。お年玉やお小遣いでためたお金だろうか。なぜその金額なのか、そんなことを聞くのは、やぼな話。1万円は返し、22円が入ったポチ袋を長財布にしのばせ「お守り代わりに」今も大切にしている。

何かと目にすることが多いであろう、心の支えにもなっている、そのポチ袋。華やかな土俵人生にピリオドを打つのか、再び泥にまみれて再起をかけるのか-。コロナウイルスの感染終息というトンネルの出口は見えず、出処進退の結論もまだ豊ノ島は表明していない。ただ、どんな決断を下そうとも、心強いお守りがこの男にはある。【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)