新日本のG1クライマックスは、今年で25年目を迎える。第1回は1991年。当時、社長だった坂口征二相談役(73)が、アイデアを出してスタートさせた。大会を始めた理由、大きく成長した大会を坂口氏が語った。

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 昨年8月10日、24回目のG1クライマックス決勝の会場西武ドームで、坂口相談役はしみじみとつぶやいた。「G1はブランドになったなあ」。91年8月、社長としてスタートさせた大会は、新日本のみならず日本プロレス界、また世界中を見渡しても類を見ない夏の大イベントに成長した。

 「日本人同士のシングルのリーグ戦をやってNO・1を決めたい」と、社長就任2年目の坂口氏は、リーグ戦の開催を決めた。「競馬からもらって、G1という名前はオレが付けた」という。当時、初代タイガーマスクが団体を去り、中堅どころの大量離脱で人材不足。米国団体との契約が切れ、外国人を安易に呼ぶことのできない状況だった。

 「猪木、坂口、木村、藤波で3年はもつ。でも、その後がいない。そこで考えたのが武藤、蝶野、橋本の3人をスターにすることだった」と坂口氏。後に大ブレークした闘魂三銃士を世に出すためにつくられたのがG1クライマックスだった。

 当時、海外武者修行から帰国したばかりの3人は、知名度も低かった。それが、第1回大会では、蝶野が準決勝で橋本、決勝で武藤を破り優勝した。決勝の両国国技館は超満員。決勝戦後は大量の座布団が舞い、以降は座布団使用が禁止になるほど盛り上がった。「あれを見て大成功だと思ったね」と坂口氏。G1で闘魂三銃士が独り立ちし、新日本の黄金期を築いた。

 再び低迷期を迎えた5~6年前、1・4東京ドーム大会とG1開催をやめる話が会社内で出たという。議論の中で「プロレス界のためにトントンでもいいから続けるべき」と、続行が決まった。数多くの名勝負、名レスラーを輩出したG1。今年はどんなドラマが生まれるのか。【桝田朗】