格闘家の山本KID徳郁さん(41=KRAZY BEE)が亡くなったことがわかった。アマレスからプロの格闘家として活躍してきた。倒すか、倒されるかの格闘家人生。日刊スポーツでは06年4月23日、そのときの旬の人を紹介する「日曜日のヒーロー」のコーナーでインタビューした。復刻版として振り返る。

今、日本で最も面白い闘いをみせる男だ。山本“KID”徳郁(29=KILLER BEE)。昨年のK-1の総合格闘技イベントHERO’Sでミドル級世界王者に輝いた。倒すか、倒されるか−いちかばちかへのこだわりは、ミュンヘン五輪でメダルを逃した父親郁栄氏(61)譲り。小さな体に備わる動物的な勘や身体能力も、家族があったからこそはぐくまれた。家族関係が希薄になり、子供をめぐる問題が深刻化する現代に、その生きざまはヒントを与えている。

 

KIDは文字通り、子供を意味する。中学時代、小柄だったからつけられた。5歳から始めたレスリング。今まで自分より小さい選手と戦ったことはない。現在は163センチ、64キロ。主戦場のHERO’Sのリミット体重は70キロだから、減量の必要はないが、前日計量のため常に10キロ以上重い相手と戦っている。

「周りから『小さいのにすごいね』と言われて、あらためて気付かされる。そういえば、自分は小さいのかって。子供のころからずっと、相手の方が大きかったから、それが当たり前。小さいなんて、今まで気にしたこともない」。

体のハンディを全く感じさせない。それが最大の魅力だ。04年2月にK-1デビューすると、瞬く間にスターにのし上がった。04年大みそかの魔裟斗戦では瞬間最高視聴率31・6%をマーク。05年大みそかには須藤元気を倒して、HERO’Sの初代ミドル級世界王者に輝いた。

「K-1に参戦した時から、盛り上げる自信はあった。お客さんがスカッとする試合を、意識せずにできるから。この前、サラリーマンから『あなたの試合を見ると、仕事に張り合いが出る』と言われた。オレが大きい人に立ち向かうことで、仕事へのチャレンジ精神が生まれるなら、戦いがいがある

強いだけでは、ここまで支持されない。激しく、スピーディーな展開。勝つか負けるか。倒すか倒されるか。ただそれだけ。判定勝利は狙わない。試合を引き延ばしたり、勝ちを拾ったりすることは絶対にない。そんなスタイルは、父親によってつくられた。郁栄氏は「疑惑」ともいわれた不利な判定が響いて、メダルを逃した。子供のとき、何度も父親の無念を報じる新聞を見せられた。その悔しさが、自分のことのように感じられるほど、何度も読んだ。

「おやじからは『判定決着はだめだ』としつこいほど言われた。判定では、審判の主観、時には人種の違いなども影響する。勝つならKOか、1本勝ちだと。だから、子供の時に誓った。負けてもいい。白黒はっきりつくまで戦うんだと。今は倒すことしか考えないし、体が勝手に反応しちゃう。無難に勝つことは、オレの中ではあり得ない。だから、コロッと負けることもあるんだけど」。

「心」だけでなく「技」「体」の面でも過酷なほど鍛えられてきた。5歳からレスリング漬けで、正月も誕生日もなかった。

「しょっちゅう、ぶん殴られてた。中学1年でたばこを見つけられた時は、ぐちゃぐちゃにされた。でも、子供はたたかないと分からないでしょ。理不尽なものはいけないけど、意味のある体罰は必要なんじゃないかな。おやじには、殴られたことを感謝してますよ」。

鬼の父親が、仏に変わる瞬間があった。レスリングの試合に勝った時だ。特大の機動戦士ガンダムのプラモデルなど、欲しいものは何でももらえた。勝てば、楽しいことがある。父親の優しい顔も見られる。体に刷り込まれていった。

「祝い事は一切なかったから、試合に勝って、プレゼントをもらうことだけを考えてた。何かを得るためには、勝ち取らなければならない。プロ根性みたいなものが自然と身に付いた。今はおもちゃが賞金に変わっただけで、やっていることは変わらない。プロとしてやっていけてるのは、おやじのおかげかもしれない」。

レスリング一家のサラブレッドだが、格闘人生は決して順風満帆ではなかった。母親の死は、この半生で最大の悲しみだった。99年9月14日、憲子さん(享年51)が亡くなった。やはりレスリング経験者で、審判の資格を持っていた。栄養士の資格も取り、子供たちをサポートしていた。悲報の3日後、全日本大学選手権で優勝した。

「落ちたよ。その時は。でも運命だし、くよくよしても、おふくろは喜ばないから。今はね、上を見れば、いつもいて、オレを見てくれている。だから悪いことできないんだよね。生きてる時は、練習さぼっても分からなかったけど、今は全部見てるから。試合も最高の特等席で見てる。だから負けられない」。

その年の11月、シドニー五輪予選を兼ねた全日本選手権で出場切符を逃し、プロ転向を決意したが、壁に突き当たった。

「自信満々で、総合格闘技の世界に飛び込んだ。みんな倒せると信じてた。だけど、現実は違った。知らない関節技を簡単にきめられたり…。打ちのめされた。悔しくて悔しくて…」。

さいたま市のジムにこもった。1日6時間以上、食事と睡眠以外は汗を流した。当然、金はない。電気も止められた。ろうそくの火を頼りに暮らす極貧生活が、約1年続いた。アマレスで活躍する姉美憂(31)、そして妹聖子(25)の注目度が増す中、1人取り残されたようだった。

「こいつら(ジム仲間)の3倍(練習を)やれば、強くなると思った。とことんまで体をいじめてやろうと。『プロになるまでは、どこにも行かない』って決めた。常に体中が痛かったけど、強くなるためだから苦じゃなかった」。

ろうそく1本の暗い部屋でも、孤独に負けなかった。5歳から父と厳しい練習を積んだ自分を信じることができた。「今はチャンスに恵まれないだけなんだ」と言い聞かせた。

「テレビで格闘技を見ても、こんなの偽者じゃないかって。オレが出れば、みんな注目するぞと。運とチャンスがあれば、絶対に格闘技界を変えてやると思い続けた。1年後にプロデビューできたけど、あの1年があるから、今の自分があると思っている」。

家族に鍛えられ、支えられてきた歩み。今は自分も2児の父親になった。真里有夫人(22)との間に長男海鈴くん(3)と二男愛郁くん(1)がいる。勝った時はいつもリングで抱き上げる。毎朝、車で保育園まで送る。「家族のためなら死ねる」とてらいもなく言い切る。

「うちの子供には不自由はさせてない。いいところに行って、いいものを食わせて、いい服を着させる。だけど、ニュースを見ちゃうとね。もしオレが、ろうそくで暮らしてた時代だったら、オレもストレスをためて、子供に害を与えたかもしれない」。

幼児虐待、少子化問題…子供をめぐる問題はひとごととは思えない。自然と言葉が熱くなった。

「国は、まず第1に子供にお金を使ってほしい。貧しかったり、共働きで子供を育てられない夫婦をサポートするとかね。お金お金は良くないかもしれないけど、お金は満たされるから。援助があれば、子供に被害はいかないでしょ」。

母親が願っていた五輪のメダル。父親の悔しさを晴らす気持ちは、今も忘れたことはない。

「チャンスがあれば、北京五輪に出たい。子供のころからメダルが目標だったから。中途半端ではだめだから、挑戦となれば、アマ一本に専念しないといけないだろうな」。

プロの次は、アマで世界の頂点に立つ。トップファイターの中で最も小柄な男の夢は、誰よりも大きい。【取材・田口潤、松田秀彦】