1970~80年代に活躍したプロレスラーのストロング小林さんが先月31日、東京・青梅市内の病院で亡くなった。81歳だった。IWA世界ヘビー級王者として国際プロレスでエースに君臨。74年3月に新日本プロレスのアントニオ猪木とのエース対決に敗れた後は新日本に入団して、坂口征二とのコンビでNWA北米タッグ王座を長期保持した。84年の引退後はストロング金剛の名前でタレントに転身。バラエティー番組で人気を博した。

   ◇   ◇   ◇

ボディービルダーからプロレスラーに転向した小林さんは入門当時「和製ヘラクレス」と呼ばれた。187センチ、125キロの巨体で、胸囲125センチに大腿囲70センチ。肺活量は一般人の2・5倍の8500もあった。66年11月にスカウトされて国際プロレスに入門。格闘技の経験はなかったが、67年7月にデビューすると、外国人にも力負けしない逸材はすぐに頭角を現した。

69年5月、欧州遠征で豊登とのコンビでIWA世界タッグ王座を奪取。同年10月に帰国するとリングネームを本名からストロング小林に改名した。その後、エースとして看板タイトルのIWA世界ヘビー級王座を71~73年まで実に25回防衛。国際はTBSで放送されていたため小林さんは、馬場や猪木に匹敵する人気があった。

74年に“事件”が起きた。国際に辞表を提出した小林さんが、新日本のエースでNWF世界ヘビー級王者のアントニオ猪木への挑戦を表明したのだ。国際側が移籍金を要求するなど大もめした末、同3月19日、東京・蔵前国技館で団体エースの一騎打ちが実現。東京・蔵前国技館は1万4500人の札止めになった。

54年12月に力道山が柔道家の木村政彦を流血KOして以来、日本選手同士の対戦はタブーとされていたため、2人の対決は「昭和の巌流島の決闘」と呼ばれ話題を呼んだ。小林さんは猪木の原爆固めに屈したが、プロレス界に日本人対決という新たな流れをつくった。同12月の再戦でも敗れた小林さんは翌75年に新日本に入団。坂口とのコンビでNWA北米タッグ王座を3年余り保持した。

81年8月、腰椎を痛めて長期欠場したことで転機が訪れた。療養中に出演した映画「伊賀忍法帖」での怪僧“金剛坊”の熱演が話題を呼び、映画やテレビのオファーが次々と舞い込んだ。小林さんはストロング金剛に改名して、84年8月の福生大会で現役を引退。芸能活動に専念した。

小3の学芸会で金太郎の熊を演じた以外、芝居には縁がなかったが、頭をそり上げたギョロ目の大男という希少なキャラクターは重宝され、お笑いからシリアスなドラマまで幅広く活躍した。しかし、バラエティー番組の撮影で古傷の腰痛が悪化。90年代半ばから芸能活動も中断して再び療養に入った。

03年に芸名を本名のストロング小林に戻した。晩年は歩行につえを欠かせなかったが、ときおり講演などをしながら地元の東京都青梅市の自宅で静かに暮らしていた。

◆ストロング小林 本名は小林省三。1940年(昭15)12月25日、東京都青梅市生まれ。67年7月にマスクをかぶり「覆面太郎」でデビュー。翌年、素顔に戻した。71年にIWA世界ヘビー級王座を獲得するなど団体のエースに君臨。75年の新日本入団後は坂口とのタッグでNWA北米タッグ王座を3年以上保持した。82年に映画「伊賀忍法帖」に出演。84年の引退後はストロング金剛の名前でタレントに転身。「風雲!たけし城」などのバラエティー番組で人気を博したが、腰痛などの影響で00年代以降は芸能活動を縮小していた。現役時代は187センチ、125キロ。得意技はカナディアン・バックブリーカー、ベアハッグなど。