WBA世界ミドル級スーパー王者村田諒太(36=帝拳)が同級最強の「頂」に屈し、2団体の世界王座統一に失敗した。世界的スターとなる元3団体統一同級王者で現IBF世界同級王者のゲンナジー・ゴロフキン(40=カザフスタン)に9回2分11秒TKO負けを喫した。プロデビューから9年、17年の世界王座初奪取から5年、常に目標としてきた現役レジェンドから勝利できなかった。

ゴロフキンは勝利後「村田はオリンピックチャンピオン、スーパー王者にふさわしい戦いを見せてくれました。戦えた私も誇らしい」と話した。

【村田諒太vsゴロフキン】村田敗れる 日本史上最大の決戦 世界ミドル級王座統一戦/ライブ詳細>>

開始ゴングがなると、両者ともガードをかためて左ジャブの打ち合いに。1回、20秒すぎに村がの右ストレートがヒット。その後、左ボディーが決まると、ゴロフキンの動きが一瞬止まったが終盤、ゴロフキンのかたいジャブが入りはじめる。2回に入り、村田が終盤にプレッシャーをかけ、ゴロフキンが下がる場面も。3回に村田がボディーにパンチを集めると、ゴロフキンは体をまるめて苦しい表情を見せ、後退した。5回からゴロフキンがペースをつかむと、6回にはゴロフキンのフックに村田のマウスピースが飛ぶ場面もあった。終盤はゴロフキンに追い詰められる場面も多かった。村田は何度か盛り返したが最後は力尽きた。

ゴロフキンが04年アテネ・オリンピック(五輪)で銀メダルを獲得した頃から常に背中を追ってきた。自らも11年世界選手権で銀メダル、12年ロンドン五輪で金メダルを獲得後の13年にプロ転向。プロデビュー戦で2回TKO勝ちした時も「客観的に見て、ゴロフキンに勝てるかというと勝てないと思う」と当時から見据えていた。

14年にはゴロフキンの米合宿に参加し、スパーリングで拳を交えた。村田は「(14年は)ゴロフキン選手の強さを実感した。ただ自分が通用するとも感じた。世界の壁の高さを感じたと同時にやはり上りたいと思った」と振り返る。17年10月、再戦でWBA世界同級王者アッサン・エンダム(フランス)に勝利し、世界王者となった時も「ボクより強いミドル級はまだいます」と発言。客席から「ゴロフキンだ!」の声があがると「そこを目指して頑張ります」と宣言していた。

18年10月、米ラスベガスでロブ・ブラント(米国)との指名試合に敗れ、まさかの王座陥落。19年7月にブラントとの再戦でWBAベルトを取り戻した。しかしコロナ禍で19年12月のスティーブン・バトラー(カナダ)戦から2年以上も試合から遠ざかった。その道のりは決して平たんではなかった。屈辱の黒星、失意のブランクを経て、ついにたどり着いたゴロフキン戦だった。

日本ボクシング史上最大の1戦と言われた大一番だった。日本ボクシング史上最大規模の興行で、両者の試合報酬の合計も20億円超と推定されるほどだ。昨年12月29日に対戦が1度決まりながら、新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」の水際対策で約4カ月延期となって実現したビッグマッチだった。五輪金メダリストでプロ世界王者という日本初の快挙を成し遂げた村田だったが「ミドル級最強」を倒すことはできなかった。

 

 

◆村田諒太(むらた・りょうた)1986年(昭61)1月12日、奈良市生まれ。伏見中1年で競技を始める。南京都高(現京都広学館高)で高校5冠。東洋大で04年全日本選手権ミドル級で優勝など。11年世界選手権銀メダル、12年ロンドン五輪で日本人48年ぶりの金メダルを獲得。13年8月にプロデビュー。17年10月、WBA世界ミドル級王座を獲得。日本人で初めて五輪金メダリストがプロ世界王者となる。家族は夫人と1男1女。183センチの右ボクサーファイター。