現役時代のいつだったかは覚えてないけど、九州巡業で鹿児島から奄美に移動する船で、千代の富士と同室になったんだ。その時、横綱が切々と話していた言葉を、今でも覚えている。「オレは第2の千代の富士を作りたいんだ。それがオレの夢。千代の富士というしこ名を弟子に継がせたいんだ」とね。ああ、そうなんだ、そんな思いがあったのかと。同じ一門で同じ昭和30年生まれ。自分も大関朝潮を作ろうと、お互い頑張ろうと思ったね。

 ところが引退後、師匠として横綱を作ったのは自分の方だった。2代目横綱千代の富士誕生の夢はかなわず、志半ばだったかもしれない。それでも最後まで、千代の富士は千代の富士だった。

 最後に会ったのは、5月の夏場所初日。監察室で、あまりにも細くなった顔を見て「痩せたねえ」と声をかけたら「健康管理のためにダイエットしてるんだよ」と、今にして思えば強がって返してきた。治療してることも口に出さず、弱みを見せたくなかったのだろう。そうやって我を張って生きて、それが引退後はマイナスになった部分もあるかもしれないけど、我を張らなかったらアイツじゃない。千代の富士らしい生きざまを、最後まで貫いて、見せてくれたと思う。(高砂浦五郎)