2016年が暮れていく。今年は格別、さまざまな分野で多くの功績を残した人物が亡くなった1年だった。そこで、その時代に立ち会った日刊スポーツの記者たちが、夢や希望を与えた偉大な人物を偲ぶ。今日からシリーズとして掲載していく。

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 大相撲、小さな大横綱が天国に旅立った。元横綱千代の富士の九重親方が7月31日に、膵臓(すいぞう)がんのために61歳で死去した。ウルフの愛称で親しまれ、史上3位の31度の優勝など、昭和から平成にかけて一時代を築いた。大鵬、北の湖に続く道産子の大横綱。取材時の思い出とともにその人生と人柄を、3回に渡って振り返る。【構成=河合香】

●一にも二にも腕立て伏せ1日1000回

 相撲担当になったのは1983年(昭58)年で、千代の富士はすでに横綱で7度優勝していた。新弟子記者には近寄りがたい存在だった。ただし、あくまで個人的に親近感を持っていた。千代の富士は本土俵だけで7度、そのうち横綱になってからは4度脱臼した。ほとんどは左肩だが、右肩も1度ある。83年夏場所の幕下時代に初めて肩が抜けた。花道で痛みにうずくまったが自然と入ったため、湿布を貼って医者に行かず癖になった。記者も同じようにしっかり治療せず、10回以上脱臼した悩みがあった。それだけにすごさを感じた。

 千代の富士は3人の医師から「手術すると半年稽古できないから、筋肉のよろいをつけろ」と言われた。1日1000回の腕立て伏せをノルマにした。だいぶ話せるようになってから、どう脱臼を克服したかをあらためて聞いた。「一にも二にも腕立て伏せ。あれに尽きる」と即答だった。「いまだって怖い感じはある」と吐露したが、続けて「あとは根性」と言ってニヤリとした。「お前にはできないよ」と言いたかったのだろう。

 北海道松前郡福島町で秋元家の長男として生まれた。元横綱千代の山とは同郷であり、それがのちの人生を決めることになった。漁師の父を手伝って舟をこぎ、海に潜ってアワビを捕り、足腰に心臓も鍛えられた。スポーツ万能、特に陸上の跳躍競技で活躍し、14歳で町内相撲に出て優勝した。翌年には元千代の山の九重親方が実家に来て誘われた。1度は断ったが、翌日に「飛行機で東京に連れていってやる」と言われて気楽に入門した。

 台東区の福井中に転校して、本名の秋元で70年秋場所、初土俵踏んだ。今は禁止の中学生力士で、身長177センチ、体重71キロだった。同期は37人いたが一番出世。序ノ口は大秋元、次の場所で千代の山と北の富士を合わせた千代の富士と改名し、のちに初の5文字関取となった。入門時の約束で明大中野高に進学したが、71年名古屋場所で初の負け越し。「中途半端。相撲1本で行く」と1学期で中退した。

●兄弟子北の富士が命名した「ウルフ」

 ケガはあったが出世は順調だった。4年でのちにライバルとなる隆の里とともに新十両となり、5年で幕内に昇進した。まだ20歳で昭和30年代生まれとしては初の幕内だった。筋肉質の体に精悍(せいかん)なマスクもあり、期待のホープとなったが負け越し。十両に落ちると右腕を痛めて幕下まで陥落した。入幕後に幕下まで陥落した唯一の横綱になると、誰が予想しただろうか。

 2場所で十両に復帰はしたが、伸び悩んでいた。77年10月には師匠が51歳で急死する不幸にも見舞われた。すでに引退していた兄弟子の北の富士は74年に井筒部屋を興していた。急きょ部屋を合併させて、九重部屋を継承することになった。ウルフの名はこの北の富士の命名だった。入門してくると「オオカミみたいだ」と言ったのが始まりだった。

 元は兄弟弟子だった2人が師弟関係になったのは、大きな転機になった。それまでは観客受けして快感でもあった、左上手をとっての強引な投げに固執していた。新九重親方のアドバイスもあり、右を差し、左前ミツを浅くとって、頭をつけて引きつけての速攻にモデルチェンジ。強引な投げから一気の寄りの相撲へと変身が花を開かせた。千代の富士は左手小指のツメは切らなかった。「まわしは小指でとれ」が基本で脇を締めるため。千代の富士は擦り切れて切る必要がなかった逸話が残る。(続く)

 ◆九重貢(ここのえ・みつぐ)本名秋元(あきもと)貢。1955年(昭30)6月1日、北海道松前郡福島町生まれ。70年秋場所初土俵。74年九州場所新十両、75年秋場所新入幕。80年夏場所新小結、80年九州場所新関脇。81年初場所初優勝で大関昇進。名古屋場所で2度目の優勝を飾って58代横綱に昇進した。優勝31度は史上3位。88年夏場所から昭和以降3位の53連勝。89年に角界初の国民栄誉賞受賞。通算在位125場所。1045勝は史上2位で437敗170休。三賞7度。金星3個。91年夏場所限りで引退し、92年4月に年寄九重を襲名して部屋を継承した。