第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。

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角界時代の輪島氏のことはあまり取材していない。担当になった時はすでに親方で、そのうち年寄名跡騒動が起きた。九州場所では博多の百道海岸の宿舎を遠巻きに張り込んだ。そんな合間に若い衆から数々の逸話を聞き、天然ぶりに笑わせられ、感心もさせられた。

当時の地方の宿舎には、ピンク色の公衆電話が臨時設置された。親方用と部屋用。力士が親方へ連絡する時も公衆電話で、長電話に備えて10円玉に両替が必須だった。当時元十両輪鵬は10円玉が足りなくなって「かけ直しします」と切ろうとした。すると親方は「大丈夫だ。こっちから10円玉入れるから」と答えたという。「熱いのはダメ。猫背だから」、「その先を右へ左折して」。天然も発想は実に奇抜だった。

プロレスデビュー前の海外修行中、米ニューヨークで息抜き時に取材した。頼まれた土産は週刊誌。日本の情報に飢えていて、その場でむさぼるように読み始めた。「美女と対談したこともある」と自慢していた。その遠征中の取って置きの話。機中のドリンクサービスで牛乳が飲みたくなったが「ミルク」という単語が浮かばない。そこで客室乗務員に向かって「モー、モー」と牛の鳴きマネをした。通じなかったそうだが。

日大はアメリカンフットボールの名門で、名将と言われた篠竹監督と親交があった。91年には学生援護会総監督に就任し、日本社会人協会理事にも就任した。日大のビッグゲームには応援に来て顔を合わすようになった。「和倉温泉に連れて行ってやる」と約束してくれていたのに。

86年に全日本プロレス入り会見での名言は忘れられない。「自分は裸(力士)になって、裸(借金4億円)になってしまったのだから、もう1度目いっぱい裸(プロレスラー)になって頑張るしかない」。憎めない、面白い人だった。【河合香】