大相撲の第60代横綱で、現役横綱双羽黒のまま廃業し、プロレスラーに転身した北尾光司さんが、2月10日に慢性腎不全で亡くなっていたことが29日、分かった。55歳だった。87年12月にトラブルで立浪部屋を飛び出し、その後は冒険家、タレント、格闘家へと転身。98年に格闘家も引退した。波乱に満ちた人生が幕を閉じた。

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北尾さんは2月10日午前7時30分に慢性腎不全のため千葉県内の病院で亡くなっていた。13年より腎臓を患い闘病生活送っていたという。生前の本人の希望で家族葬が執り行われ、2月13日に通夜、同14日い告別式、3月28日に納骨された。

北尾さんは立浪部屋から79年(昭54)3月の春場所で初土俵を踏み、86年(昭61)1月の初場所から大関、同年9月の秋場所から横綱に昇進。横綱として8場所務めた後、87年12月にちゃんこの味付けをめぐってトラブルになり、部屋を飛び出した。その後、師匠から当時の「廃業届」が提出された。1909年(明42)に優勝制度が導入されて以降、唯一、優勝経験のない横綱となった。これをきっかけに、横綱昇進は慎重な見方をされるようになり、大関として連続優勝、またはそれに準ずる成績が求められることになった。

相撲界を離れた後、スポーツ冒険家と名乗り、第2の人生をスタートさせた。米国冒険旅行などタレントとして活動を2年ほど続けた後、90年2月10日に新日本プロレスの東京ドーム大会でプロレスデビュー。バンバンビガロとのデビュー戦に、ギロチン・ドロップで勝利し、華々しい船出を飾ったかに見えた。

しかし、新日本プロレスでは、単調な試合運びに目の肥えたファンからブーイングを浴びせられるなど、人気は上がらなかった。そのうちに、現場監督を務めていた長州力に暴言を吐き、契約解除を言い渡された。その後、天龍源一郎のSWS、WARでもトラブルを起こし解雇された。

プロレスで居場所がなくなった北尾さんは、総合格闘家へ転身。UWFインターナショナルや、初期のPRIDEなどで試合を行ったが、さしたる実績を挙げられず、98年に現役引退を表明。同年10月のPRIDE4で引退セレモニーを行った。相撲時代同様、プロレス、総合の世界でも周囲とうまくいかず、その才能を開花させることはなかった。

03年9月には、自身が相撲界にいた時とは代替わりしていたが、16年ぶりに立浪部屋を訪れ、部屋のアドバイザーに就任した。その際には「名門立浪復活の手助けをしたい」と、意気込みを語っていた。当時から師匠を務める立浪親方(元小結旭豊)は「交流はその時の一瞬で、その後は連絡を取っていなかったから、最近の様子は知らなかった」と話していた。

◆双羽黒光司(ふたはぐろ・こうじ) 本名北尾光司。1963年(昭38)8月12日、三重県津市生まれ。中学卒業と同時に立浪部屋に入門し、79年春場所で初土俵。84年初場所で新十両を果たし、同年秋場所で新入幕。85年九州場所後に大関、86年名古屋場所後に第60代横綱昇進。同じ昭和38年生まれの北勝海、小錦、寺尾らと「花のサンパチ組」と呼ばれた。ちゃんこの味付けをめぐり87年12月27日、師匠の立浪親方(元関脇安念山)と大げんか。仲裁に入ったおかみさんを突き飛ばし部屋を飛び出した。4日後の大みそかに臨時理事会を開き、双羽黒の廃業を決議した。通算348勝184敗24休、優勝次点7回、三賞7回。引退後はプロレスラーなどとして活動し、03年に立浪部屋のアドバイザーを務めた。