「栄光への架け橋だ」などのオリンピック(五輪)実況や大相撲中継で知られるNHKの刈屋富士雄アナウンサー(60)が30日で定年退職し、5月1日付で立飛ホールディングス執行役員スポーツプロデューサーに転身する。最後の荷物整理をしていた29日、現在の心境や今後の仕事などについて聞いた。「前編」ではNHKでの実況などを振り返ります。【聞き手=佐々木一郎】

-30日で退局されます。現在の心境は

「38年勤めましたから、感慨深いですね。NHKのアナウンサーになるにあたって、オリンピックの日本金メダルのシーンを伝えるという夢を持っていました。その夢がかないましたから」

-刈屋さんが実況した金メダルは

「2004年アテネオリンピックの男子体操団体と、2006年トリノオリンピックのフィギュアスケート荒川静香さんです。どちらも絶対的な金メダル候補ではなく、難しいと思われた中でとれた金メダルです。体操団体は中国が金メダル候補でした。荒川さんの時はスルツカヤやサーシャ・コーエンがいましたから」

-アナウンサー時代の一番の思い出はこの2つの金メダルですか

「そうですね。この2つですね。夢がかないました」

-体操団体で金メダルが決まる瞬間、冨田選手の鉄棒の着地に合わせて「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への懸け橋だ!」と実況されました。この名実況は、刈屋さんにとってどういうものですか

「冨田選手が着地を決めてくれたことで、体操をずっと応援してくえていた人たちの思い、日本の体操の歴史など、縦軸、横軸、斜めの軸などがピタッと集まったんです。その場面に巡り合えたのは幸運でした」

-その後、冨田選手と話す機会はありましたか

「何度かありますが、去年は雑誌の企画で対談しました。彼は日本の得点、(他国との)得点差まで状況を把握して演技していたそうです。自分が9点を取れば金メダル。正確には8・962点なのですが、ほぼ9点。コールマンを取った時点で決まると分かっていました。名場面を振り返る特番では(団体メンバーの)米田さんと話しましたが、彼は得点差を知らなかった。状況を知ると邪念が入るから演技に集中していたそうです」

-刈屋さんは当時44歳でした

「40代は反射神経があり、いろんな言葉が浮かんできたりする。経験と反射神経がちょうど合っていたのが、40代だと思います。選手と同じで、スポーツアナウンサーもピークがあります。そう考えると、自分のピークに合ったともいえますね」

-大相撲中継にも長くかかわりました

「35年くらい現場にかかわっています。こんなにかかわるとは思っていませんでした。千代の富士の時代から始まって、若貴、ハワイ勢、モンゴル勢、欧州からの力士も含め、上位を外国出身力士が占める時代がくるとは想像もつきませんでした。その後は遠藤、稀勢の里らが盛り上げました。ブームとどん底を2回ずつ経験しました。暴力が当たり前の時代もありましたが、35年で随分変わりました。大相撲へのかかわりは深く、愛情もあるので、思うことがあります。今は人気がありますが、底辺が広がらない。競技人口が増えない。なので、日本で毎年、東京でアマチュアの国際大会を開きたいと思っています」

-思い出の一番は

「昭和63年九州場所千秋楽の千代の富士-大乃国戦です。千代の富士の連勝が53で止まった一番です。当時の私はまだ下っ端でした。千代の富士の特番を作っていたので、先輩たちは千代の富士の担当。私は大乃国の談話取りでした。西の花道には人がいなくて、通路の真ん中近くまで行って見ていました。そうしたら、大乃国が勝った。座布団が飛びました。薄暗くなった通路を大乃国が引き揚げてきました。全身、血の気が引いて真っ白でした。くちびるは真っ青で、顔面蒼白(そうはく)でした。緊張して力を出し切った人間はこんなふうになるんだと…。あの光景を見て、これが大相撲なのかと思いました。何年も努力し続けた人間が、全精力を出し切るとこうなる。それを目の当たりにして、相撲の魅力はこれだなと。1500年も興味を持たれ続けるのはこれなんだと思いました。歩いてきた大乃国に『どうでした?』と聞くと、まだ興奮してコメントできません。少し待ってから『弱い横綱と言われてきたので、勝ててよかったです』と言ったのです」

-東京五輪で実況したかったという未練はありませんか

「もう実況は、若い人に譲っていかないといけません」

-現在のNHKでの肩書は

「解説主幹です」

-最後の出演番組は何になりますか

「生放送は先週のシブ5時で終えました。放送で出るのは、ヒーローたちの名勝負という番組で、アテネ五輪の体操をやります。その前振りをやっています」

(後編に続く)

◆刈屋富士雄(かりや・ふじお)1960年(昭35)4月3日、静岡県御殿場市生まれ。早大時代は漕艇部所属。83年にNHKに入局し福井、千葉放送局をへて92年から東京アナウンス室。五輪は92年バルセロナから10年バンクーバーまで8大会で現地から実況した。