14場所ぶりに幕内復帰した大関経験者の東前頭17枚目照ノ富士(28=伊勢ケ浜)が、5年ぶり2度目の優勝を果たした。

関脇御嶽海を寄り切って13勝目。ともえ戦に持ち込まず、本割で決めた。優勝は15年夏場所以来。30場所ぶりの優勝は史上2番目のブランクで、大関経験者が関脇以下で優勝するのは昭和以降2人目。両膝の負傷や内臓疾患に苦しみ序二段まで番付を落とした男が、大相撲史に残る復活劇を成し遂げた。

   ◇   ◇   ◇

優勝を決めて土俵下に下りると、照ノ富士は30場所前の自身の優勝額を見上げた。「いつもあと何場所で写真がなくなるか考えていた。なくなる前に、もう1つ飾りたかった」。国技館の優勝額は直近の優勝力士32人。大相撲ファンが忘れないような、記録ずくめの優勝でつないだ。

混戦模様を振り払うように、本割1発で決めた。御嶽海に敗れれば、ともえ戦に突入。「やってきたことを信じてやるだけだと思った」。立ち合い当たってすかさず両上手を取ると、引きつけて一直線。勝って涙ぐむことも、笑みを浮かべることもない。「うれしくて何がなんなのか分からなかった。いろんなことが頭に浮かんで、落ち着いてこらえた」。23歳の初優勝時は支度部屋で涙。感情を整理して優勝の実感に浸った。

1897日前の初優勝とは、歓喜の味が違った。「イケイケのときに優勝してる。今は慎重に、1つのことに集中してやってきた。それが違う」。15年の大関昇進後は、けがと病気との闘いだった。両膝の負傷に加えて、C型肝炎、糖尿病なども患い、移動の際は人の手が必須。トイレに行くのさえ容易ではなかった。幕下陥落が決定した18年6月に両膝を手術。右膝は前十字靱帯(じんたい)が、左膝は半月板がなくなった。

17年の大関陥落後、師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)には何度も引退を申し出たが、認められなかった。「必ず幕内に戻れる」と粘り強い説得を受け、照ノ富士も「もう1度新弟子になろう」と決意。大好きな酒を断ち、幕下以下が締める黒の稽古まわしで再出発した。

表彰式で引退を慰留してくれた師匠から優勝旗を手渡された。「みんなが支えてくれて、恩返しがしたかった。こうやって笑える日がきてうれしい。こういう時期だから、みんなに勇気と我慢を伝えたいと思って一生懸命やった」。4カ月ぶりに再開した本場所。心身を見つめ直したかつての横綱候補が、コロナ禍で暗雲が垂れ込める世の中を明るく照らした。【佐藤礼征】

◆照ノ富士春雄(てるのふじ・はるお)本名・ガントルガ・ガンエルデネ。1991年11月29日、モンゴル・ウランバートル市生まれ。18歳で逸ノ城らと一緒に来日し、鳥取城北高に留学して相撲を始める。3年時に中退して間垣部屋に入門。しこ名「若三勝」として11年技量審査場所で初土俵。13年春場所後に伊勢ケ浜部屋に転籍。同年秋が新十両昇進で「照ノ富士」に改名。14年春場所が新入幕。関脇だった15年夏場所で初優勝を果たし、場所後に大関昇進。17年秋場所に大関陥落。5場所連続休場して19年春場所に西序二段48枚目で本場所に復帰。192センチ、180キロ。血液型はO。家族は両親と姉、妹。得意は右四つ、寄り。愛称は「ガナ」。

▽八角理事長(元横綱北勝海)「照ノ富士はよく戻ってきた。戻ってすぐの優勝だから素晴らしい。こんなに早く優勝できるとは、本人も思っていなかっただろう。やっぱり、いろいろ経験してきた元大関だ。緊張感の中、気持ちで相撲を取っていた。ただ、まだ膝をかばっている感じで不安もあるだろう。来場所は難しいものがあるのでは」

▽照強(照ノ富士に前日)「明日頑張って下さい」と言ったら「ありがとう」と。優勝してもらって気持ちよく祝いたい。