日本相撲協会は13日、元関脇麒麟児(本名垂澤和春氏)が3月1日に多臓器不全のため死去したと発表した。67歳だった。

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大相撲で元関脇の麒麟児は、私にとっては「漢字の先生」だった。幼稚園年長から小学校低学年くらいまで、午後4時前からテレビの前に陣取る相撲少年だった。ノートに手書きで、力士名、勝ち負け、決まり手などの勝敗表を、幕内全取組でつけていた。

当時、私の好きな力士は「若嶋津」(現二所ノ関親方)。だが、小1か小2の習字の時間に、担任の先生から「好きな漢字を書いて」と言われ、筆で記したのは「麒麟児」だった。私にとって、力士の中でもっとも書くことが難しかったのが「麒麟児」だった。ようやくきれいに書けるようになったことがうれしかったのだろう。平仮名で書く妥協はせず、泣きながらでも書き続けた成果だった。「鳳凰」「鷲羽山」「魁輝」なども難しかった記憶がある。先生からも、同級生の前で「漢字の横綱」と呼ばれ、鼻を高くした記憶もある。それが、次の力士名を覚える原動力でもあった。女性だった担任は「北の湖」の大ファンだった。若嶋津が北の湖に勝った翌日は、子どもながらに私に対して不機嫌な先生の態度も鮮明に残っている。

大相撲担当時代、元麒麟児の北陣親方に「僕は親方のおかげで漢字をたくさん覚えられたんです」と話したことがある。返ってきた言葉は意外だった。「私は最初、麒麟児のしこ名が嫌だったんですよ。書くことも難しいし、大人にもちゃんと呼んでもらえない時もある。子どもにはキリン(麒麟)なのに、なんで背が低いの? なんて言われたこともあるんですよ」。私が「親方が得意の張り手、突っ張りしなかったんですか?」と冗談を言うと「背が低いキリンもいるんだよ、と言ったんですよ」と笑った。続けて、「おじちゃんの名前は麒麟児でしょ。児というのは子どもってこと。キリンの子どもだから小さいんだよね」と言ったらしい。その子にとっても「児」の意味を教えてくれた、優しい先生になった。【13~14年相撲担当=鎌田直秀】