最強の横綱大鵬に挑み、乗り越え、新時代を築いた「悲劇の横綱」がいた。第51代横綱の玉の海正洋。ライバルであり、親友でもあった北の富士(現NHK相撲解説者)と同時に横綱昇進を果たし、相撲ファンは「北玉時代」の到来と期待した。だが横綱在位10場所、これからが全盛期と思われた1971年(昭46)10月に右肺動脈幹血栓症により27歳で急逝。現役横綱のまま亡くなった人生は、まさに波瀾(はらん)万丈だった。

    ◇    ◇    ◇

日本中が驚く、悲報だった。1971年(昭46)10月11日、1人の力士が急逝した。直前の秋場所で12勝を挙げていた第51代横綱の玉の海正洋。亡くなる1週間前に虫垂炎の手術を受けたが、経過は良好なはずだった。死因は「右肺動脈幹に発生した血栓症」。現代では「術後の肺血栓」と呼ばれる。退院予定日の前日に突然、逝った。

現役横綱の死は、江戸時代の第3代丸山と第4代谷風、昭和の第32代玉錦に次ぎ史上4人目だった。27歳8カ月。それまでの3人は亡くなった時は30~40代で、土俵人生をほぼ歩み切っていたことを思えば、相撲界始まって以来の「悲劇」だった。あまりにも早過ぎる死に、高度成長で勢いづいていた国民も、悲しみに包まれた。

ライバルは、人目をはばからずに泣いた。玉の海と同時に横綱昇進を果たした北の富士は、巡業先の岐阜・羽島で悲報を聞いた。現在はNHK相撲解説者を務める北の富士勝昭が、当時を振り返る。

北の富士「信じられなかったし、本当にショックだったよね。『柏鵬』という大きな時代のあとに『北玉時代』と呼ばれて『さあ、これから』という矢先だったから。あの年(71年)は、夏におれ、名古屋で玉の海、秋におれ、って交互に全勝優勝した。それなりの充実感を感じ始めていた時だった。まだ27歳の男盛り。あまりにも突然に逝ってしまったよ…」

ひとつの時代が幕を開けたばかりだった。前年の70年1月28日。2人の横綱が誕生していた。直前の初場所で優勝した北の富士と、優勝決定戦で敗れた玉乃島。史上5組目の同時昇進だった。

角界は過渡期だった。68年に横綱佐田の山が引退。前年の69年名古屋場所では横綱柏戸も土俵を去っていた。偉大な横綱が次々といなくなり、独走していた大鵬も故障がち。「柏鵬時代」の終息とともに、相撲界を引っ張っていたのは玉の海と北の富士だった。年齢は北の富士が2つ上。出世のペースも似ていた。人気者となっていた2人が「北玉時代」の到来を告げていた。

新横綱として臨んだ春場所、玉の海は順調に白星を重ねていた。無傷の12連勝で単独トップ。13日目、横綱として初黒星を喫した相手は、横綱大鵬だった。立ち合いで得意の右四つになるが、大鵬が素早く巻き替えてもろ差し。両上手を引いた玉の海が右から上手投げを仕掛けたところ、逆に下手投げを打ち返された。千秋楽は北の富士に上手投げで敗れ13勝2敗。結局、1敗の大鵬が優勝した。通算32度の優勝を誇る元横綱大鵬の納谷幸喜は、この31度目は意地でもぎ取ったという。

大鵬「まだまだ思うようにはさせないぞ、ってね。極端な話、自分は優勝できなくても、2人の全勝優勝だけは阻止してやろうと思っていた。私が全勝優勝したのは、横綱になって10場所目でしたからね」

この春場所をアピールする日本相撲協会のポスターに登場していたのは、玉の海と北の富士だった。長年の「顔」だった自分の姿が消えていたことも、先輩横綱の闘志に火をつけていた。

新横綱場所こそ大鵬に優勝を許したが、北の富士が翌夏場所から連覇した。玉の海も負けじと、秋、九州場所と続けて制した。充実期を迎えた2人の横綱と、故障と闘いながら意地を見せる大鵬。3横綱が競う土俵に、ファンは沸いた。翌71年夏場所限りで大鵬が引退。真の「北玉時代」が期待されたが、翌秋場所が玉の海の最後の場所となってしまった。(敬称略=つづく)【近間康隆】

【柔道敵なし、大逆転の角界入り/玉の海(2)】はこちら>>

◆玉の海正洋(たまのうみ・まさひろ)本名は谷口正夫。1944年(昭19)2月5日、大阪市生まれ、愛知・蒲郡育ち。蒲郡中では柔道でならし、評判を聞いた関脇玉乃海がスカウト。59年春場所初土俵。63年秋場所新十両、64年春場所新入幕。66年9月に大関となり、68年夏場所で13勝を挙げて初優勝。70年初場所後に北の富士とともに横綱に昇進し、しこ名を「玉乃島」から「玉の海」に改める。71年10月11日、虫垂炎手術後に発生した右肺動脈幹血栓症により死去。優勝6回。幕内在位46場所で469勝221敗。3賞6回(殊勲4、敢闘2)。金星4個。得意は突っ張り、右四つ、上手投げ。血液型AB。177センチ、134キロ。