日本中が注目した一番だった。65年初場所初日、新小結の玉乃島(のち横綱玉の海)は結びの土俵に立っていた。相手は2連覇中の横綱大鵬。本場所の取組が「系統(一門)別」から「部屋別総当たり」に変更された歴史的な日だった。大鵬(二所ノ関)と同じ二所ノ関一門の玉乃島(片男波)は、初顔合わせだった。

玉乃島は果敢に攻めた。立ち合いから激しく突っ張り、大鵬の差し手を阻む。いなしと肩透かしでよろめかせ、休まずに動いた。大鵬も網打ちで逆襲し、右四つで組み止める。玉乃島は上手が取れず、勝負あったかに見えた。

ここで玉乃島は「ばくち」に出た。巻き替えて、大鵬得意の左四つにしたのだ。十分となった大鵬は左足から出てきた。狙い通りだった。玉乃島は右足を大鵬の左足の内側から掛け、あおむけに倒した。静寂のあと、東京・蔵前国技館は座布団の嵐になった。

元横綱大鵬の納谷幸喜「闘志はいつも通りわいていたけど、どこかで新しい『敵』を意識しすぎたのかもしれない。彼は目の色を変えて必死だった。『余裕を持てば負けるわけがない』と切り替えるまで、しばらく時間がかかったね」

学年は大鵬が3つ上。幕下だった玉乃島が二所ノ関部屋から片男波部屋に移籍した62年7月、すでに横綱だった。兄弟子に気後れせずに勝った「恩返し」が、八百長も心配された「部屋別総当たり制」への不安を吹き飛ばした。玉乃島は勝った写真を添え、愛知・蒲郡の母ハルヨに「横綱に勝った! しかも天下の大鵬関に」と手紙を送った。ハルヨは涙を流し、手紙を大事そうに抱えたという。

殊勲星で始まった新三役場所は、5勝に終わった。だが、東前頭3枚目に落ちた翌春場所は佐田の山と栃ノ海の2横綱と2大関を破り、初の三賞となる殊勲賞を獲得。再小結の夏場所も大鵬、佐田の山を撃破し、2場所連続で殊勲賞を手にした。横綱キラーとして、存在感を見せ始めていた。

翌66年、角界は世代交代期に入った。4横綱3大関から、初場所後に大関栃光が引退。夏場所後には大関北葉山が、九州場所では横綱栃ノ海が土俵を去った。一方で22歳の玉乃島をはじめ、24歳トリオの北の富士(当時は北の冨士)、清国、琴桜、23歳の若見山と22歳の長谷川が台頭していた。

上位に定着した玉乃島は、体重も110キロ台に増えていた。西前頭8枚目だった初場所は、13日目に横綱柏戸との1敗対決に敗れたものの、13勝で初の敢闘賞。夏場所は5場所ぶりに関脇に復帰し、初めて「三役で2ケタ」の10勝を挙げた。名古屋場所は9勝6敗。そんな時、同じ大関候補だった北の富士が先に昇進を決めた。

元横綱の北の富士勝昭「名古屋の千秋楽でシマちゃん(玉乃島)とやってね。左四つで組んだまま、こっちが上手、向こうが下手で投げを打ち合った。物言いがついたけど軍配通りに勝ってね。場所後に大関になるとは思っていなかったけど、若いときの相撲は今も思い入れがあるね」

腰痛を押して強行出場した秋場所は、10日目まで6勝4敗。だが、ライバルに先行された悔しさから、闘志はなえなかった。12日目に横綱柏戸を2場所連続で撃破。千秋楽では大関北の富士を内掛けで破り、11勝目を挙げた。夏場所からの3場所で合計30勝。目安の「3場所33勝」には届いていなかったが、協会幹部は横綱や大関と五分に渡り合う力を評価。ベテランぞろいの上位陣の中で、若き北の富士との熱い闘いも後押しした。期待の声とともに誕生した「大関玉乃島」。だが22歳の新大関には、高くて大きな壁が待っていた。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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