1966年(昭41)9月28日、のちに横綱玉の海となる22歳の玉乃島は、大関に昇進した。直前の秋場所まで3場所合計30勝。目安の「3場所33勝」には届いておらず、連絡を受けた片男波親方(元関脇玉乃海)は慌てた。若い衆をたたき起こし、前夜遅くに愛知・豊橋後援会発足式から帰京した玉乃島も急いで準備。使者を15分も待たせるドタバタだった。

若い衆は相撲界では異例の「胴上げ」で祝福した。部屋も2階の大広間を改造して6畳の個室をつくった。それでも玉乃島は変わらない。大関になっても二所ノ関部屋に出向き、横綱大鵬の胸にぶつかった。ノルマの「てっぽう1000回」もサボらず、師匠に殴られても素直に受け入れた。

愛知・蒲郡中で1年先輩だった元前頭和晃の杉浦敏朗「当時の私は十両と幕下を往復していたけど、番付の差に関係なく接してきた。『先輩、こうした方が…』と遠慮がちに教えてくるから『そりゃ、思うように相撲が取れれば、ワシも横綱だ』って言ったら大笑いしてね。決して、偉ぶることはなかった」

昇進後はしばらく9勝6敗が続き「クンロク大関」と呼ばれ始めた。当時の日刊スポーツには「大関で負けると、それまでの1敗とは全然違う…」と明かしている。地位の重圧に悩み、大関3場所目の67年春場所には負け越し。かど番だった夏場所も、千秋楽にようやく勝ち越す低迷だった。

周囲には「体が小さいのに大関の相撲を取ろうとするからだ」と非難された。だが、実は春場所で右ひじ靱帯(じんたい)を負傷。重傷を隠して、左手1本で戦っていた。玉乃島はのちに「治療に最善は尽くしていた。精神面に参らないよう、気をつけた」と振り返っている。半年後には快方に向かい、本来の激しく速い相撲が戻ってきた。

68年初場所、春場所と連続で12勝。横綱大鵬が全休した夏場所は、もう1人の横綱柏戸も途中休場した。7日目までに2敗しながら、優勝好機に中盤以降は盛り返す。北の富士と琴桜を下して13勝2敗。初めて賜杯を抱き、当然のように「横綱」の声も挙がった。

場所後の横綱審議委員会は紛糾した。約1時間半の会議の結論は、多数決の4対2で「時期尚早」…。大関昇進直後の低迷も尾を引いていた。この年の玉乃島は年間69勝で、大鵬と柏戸の両横綱を差し置いて初の年間最多勝力士になっている。充実期であったが、綱への道は遠かった。

同九州場所と翌69年初場所も12勝。最後まで優勝争いに絡みながら、大鵬に連続優勝を許したことが昇進を阻んだ。だが69年秋場所8日目の天覧相撲、1敗の玉乃島は壁になっていた最強横綱とぶつかった。初顔の65年初場所こそ勝ったものの、同秋場所から16連敗中(不戦勝を除く)。大関になってから1度も勝っていなかった。だが、全勝だったその「天敵」を止めて勢いに乗る。13勝で2度目の優勝を果たした。

元横綱大鵬の納谷幸喜「昇進を見送られても、次の場所には闘志満々だったね。けいこ場でも何度も『もう一丁』って、こっちがへこたれるくらい真剣で、しぶとかった。体は大きくなかったけど、情熱と根性は人一倍だった」

大鵬は夏場所で30度目の優勝を果たし、この秋場所初日に「一代年寄」を贈られている。名古屋場所では柏戸が引退し、長き「柏鵬時代」は幕を閉じた。晩年を迎えていた「1人横綱」の後釜を、玉乃島と北の富士、琴桜、清国の大関陣が争う。「三度目の正直」での昇進ムードは、確実に高まっていた。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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◆玉乃島(玉の海)の大鵬戦 「部屋別総当たり制」が導入された65年初場所初日に新小結で対戦。内掛けで、かつての兄弟子の横綱大鵬を破った。同夏、名古屋場所と連勝したが、秋場所から67年九州場所の不戦勝を挟み、69年名古屋場所まで16連敗。横綱昇進後は2勝4敗(別に優勝決定戦1勝1敗)で通算は6勝21敗(不戦勝と決定戦を除く)。先輩横綱の栃ノ海には3勝5敗、佐田の山には7勝12敗、柏戸には最後に5連勝するなど13勝10敗(不戦勝を除く)だった。