ライバルとの切磋琢磨(せっさたくま)が、玉乃島(のちの玉の海)を横綱まで押し上げた。70年初場所千秋楽。2敗の大関玉乃島は、2連覇に王手をかけた1敗の大関北の富士とぶつかった。取組前には春日野審判長(元横綱栃錦)が「(玉乃島は)先場所10勝だから、12勝では厳しい。13勝すればな」と発言。「綱」をかけた戦いだった。

激しい突っ張り合いから、北の富士得意の左四つ。玉乃島はつりを懸命にこらえ、逆に腰に乗せてつり出した。執念の逆転勝ち。決定戦では北の富士の外掛けに屈したが、1人横綱の大鵬が休場した場所で、最後まで2人が優勝を争った。場所後に、北の富士とともに史上5組目の横綱同時昇進。玉乃島25歳11カ月、北の富士は27歳10カ月だった。

元横綱の北の富士勝昭「けいこ場でも、おれのほうが相性よかったね。左を堅くして(玉乃島得意の)右四つにはほとんどならなかった。でも、そう考えたら、シマちゃん(玉乃島)は不得意な形なのに、あれだけの相撲を取っていたんだなあ」

初土俵は約2年、北の富士が先だった。だが新十両は3場所、新入幕と大関昇進は1場所、北の富士が早かっただけ。関取になると同じスピードで出世して、毎場所のように顔を合わせた。初対戦は玉乃島が新十両だった63年秋場所で、幕内では64年夏場所。幕内通算は70年初場所の決定戦を除き、玉乃島の21勝22敗だった。

北の富士「幕下のころ『二所ノ関に“玉乃島”という足腰がしぶとくて、センス抜群なやつがおる』と聞いた。年下に負けてたまるかと、イラッとしたね。横綱になる前は、巡業先でよく三番げいこをした。シマちゃんのおかげで、やる気も力もついたんだ」

土俵上では互いの負けん気を激しくぶつけ合い、熱戦を繰り広げた。一方で土俵を離れれば「北さん」「シマちゃん」と呼び合い、友情を深めた。

玉乃島が亡くなる2カ月前。71年8月の夏巡業は、北海道を回る北の富士らA班と、中部・東北の玉乃島らB班に分かれた。終盤に虫垂炎を再発した玉乃島が離脱。先に日程を終えて帰京していた北の富士が、急きょ秋田・八郎潟巡業に向かった。そこで雲竜型の北の富士はなんと、玉乃島の不知火型で土俵入りした。北の富士は「むこうの付け人が不知火型の綱締めしか知らなかったから」というが、両方の型で土俵入りした横綱は、ほかにいない。病に倒れた親友を思う、友情エピソードと言われた。

北の富士「よく対照的だと言われたね。こっちが『現代的』で、むこうが『古典的』みたいな感じで。でもシマちゃんの方が2歳若いし、ボウリングしてギターも弾きこなした。おれが古くさくて、むこうの方が時代に順応していたんだよ。おれのばか話も、よく聞いてくれたなあ。子供好きで、思いやりがあったよ」

玉乃島が亡くなると、北の富士は精彩を欠いた。直後の71年九州場所こそ優勝したが、翌72年には体調を崩した。初場所から途中休場、9勝、途中休場、全休…。秋場所に全勝優勝で復活した時には、玉乃島の死から1年がたっていた。

北の富士「彼がいなくなって、心の張りがなくなったんだよね。相撲に嫌気がさして、本当に引退しようかと思った。シマちゃんが生きてくれていたら…と何度も思ったよ」

玉乃島は右四つで守りが堅く、粘り強かった。対して北の富士は左四つの攻撃型で、淡泊で解放的と言われた。対照的な2人だが、ポスト大鵬としてしのぎを削り合った。全盛期に突然の結末を迎えた「北玉時代」だったが、短くても相撲史には鮮烈な記憶として残っている。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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◆北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき)本名・竹沢勝昭。1942年(昭17)3月28日、北海道旭川市生まれ。57年初場所初土俵。63年春場所新十両。入幕した64年初場所は13勝で、新入幕最多勝記録。66年7月に大関、70年1月に横綱昇進。幕内優勝10回。得意は左四つ、上手投げ、外掛け。現役時代は185センチ、135キロ。74年名古屋場所中に引退し、年寄「井筒」を襲名。77年11月に九重部屋を継承、横綱千代の富士(現九重親方)横綱北勝海(現八角親方)らを育てた。98年1月限りで日本相撲協会を退職し、NHK相撲解説者に。