横綱玉の海の魅力は、強さだけじゃなかった。明朗快活で、決して偉ぶることがない、その人間性。新米記者の取材にも快く応じていたという。先輩には敬意を示し、後輩には時にハッパをかけながら、土俵外では優しく接していた。

2年後輩だった元大関前の山の千田川親方「十両に上がったころ、あの人はもう三役だった。そのころから、随分かわいがってもらったね。分別のある人で、絶対に軽率な言動はしなかった」

特に目をかけたのは6歳年下で、のちに大関となる貴ノ花だった。同じ二所ノ関一門として胸を出し、巡業でも猛げいこした。玉の海が横綱になった70年に、貴ノ花は幕内に定着。横綱土俵入りでは露払いに指名し、71年3月の日刊スポーツの取材に「1年前よりも粘っこくなって成長したよ」と喜んでいる。

そんな貴ノ花が「精進を決意した」という忘れられない夜がある。71年初場所千秋楽が終わった深夜3時。タニマチにごちそうになって帰宅途中の貴ノ花は、東京・外苑前で玉の海の自動車を見つけた。のぞき込むと運転手しかいない。「どうした?」と聞くと「横綱がいるものですから」と返ってきた。

貴ノ花は驚いた。目を凝らすと、真っ暗な外苑通りを玉の海が走っていた。貴ノ花は「私は自分が恥ずかしく、しばらくは玉の海さんの姿が頭から離れなかった。あれが相撲人生で大きな岐路になった」と振り返っている。この日、玉の海は本割、決定戦と大鵬に連敗し、3連覇を逃していた。取組後は「なんの、これしき。弱いから負けるんだ」と唇をかんだ。

悔しさを忘れ、邪念を捨てるため、人目を避けて夜中に走り続けた。のちに藤島を経て二子山親方となった貴ノ花は、初めて育てた関取を「安芸乃島」と改名させた。尊敬する玉の海が大関まで名乗った「玉乃島」にも由来するという。

玉の海は土俵でのけいこに加え、ジャージー姿でよく外苑前を走っていた。「夜に帽子をかぶれば、ばれません。あそこは一回りすればヘトヘトになる。4周もすれば足腰が安定しますよ」と話していた。九州場所でも福岡の宿舎近くの百道浜を走り込み、けいこ前には30分以上の準備運動を欠かさなかった。精進を続ける横綱の背中を、後輩はしっかり見ていた。

そんな玉の海に、暗い影が忍び寄っていた。71年名古屋場所で初の全勝優勝を飾ったが、実は夏場所で急性虫垂炎になっていた。薬で痛みを散らしていたが、8月の夏巡業中に再発し緊急帰京。だが、秋場所が迫っていたため手術はしなかった。場所前に肋骨(ろっこつ)を骨折しながら12勝と最低限の責任は果たした。

場所後の10月2日には、元横綱大鵬の引退相撲で太刀持ちを務めた。4日は元前頭浅瀬川の引退相撲に参加。その足でようやく、東京・虎の門病院に入院。病室は414号室だった。

元大関大麒麟の堤隆能「4日の花相撲で『ワシが死ぬようなことがあったら、あとは頼むぜ』って言われた。冗談だけど、まさかあれが現実となり、最後の言葉になるとは…」

元関脇の長谷川勝敏「気が合うからよく遊んだよ。さっぱりした性格だったけど、孤独なところがあった。人の話は聞き上手なのに、自分のことはあまり語らない。それが入院直前に『もしもの時は、あとを頼むぞ』って言ってね」

周囲は手術を勧めたが「大鵬さんの引退相撲までは」と先延ばしにした。責任感と「綱の使命感」が、結果的に悲劇を招く。6日に手術を終え、退院予定は12日。経過は良好…のはずだった。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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