悲劇は突然、訪れた。1971年(昭46)10月11日、横綱玉の海は入院中の東京・虎の門病院で倒れた。5月に患った虫垂炎を6日に手術。9日からは、車いすで動けるようになっていた。経過良好ということで、12日には退院する予定だった。

午前7時30分に起床。洗面所で顔を洗った直後に心臓発作を起こした。最後の言葉は「胸が苦しい…」。懸命な心臓マッサージで一時は持ち直したが、次第に力は弱まった。午前11時30分、27歳8カ月の若さで人生の幕を閉じてしまった。

「右肺動脈幹血栓症」。今では「術後の肺血栓」と呼ばれる。前日10日も同様の痛みを訴えていた。現代では肥満体の人が手術後に血栓症を発症する可能性をケアしているが、当時はあまり知られておらず、十分な予防策が取られていなかった。

11日夜、玉の海は東京・墨田区の片男波部屋に無言の帰宅をした。弟弟子が、棺に納まった肩幅の広い遺体に向かって「横綱、窮屈そうですね」と涙声で語りかけた。その言葉に、周囲も泣いた。13日に通夜、14日に告別式。亡くなった11日から葬儀が終わるまで、東京はずっと雨だった。

師匠の片男波(元関脇玉乃海)は「シマ! シマ!」と無言の弟子を揺すった。「ニキビの童顔でやってきた時から、一本筋の通った男だった。眠っているようだ…」と涙を流した。母ハルヨは綱を締めて仁王立ちする遺影を見詰め、火葬場では泣き崩れた。

元関脇長谷川の長谷川勝敏「ボウリングでリードされると、土俵の上と同じようにムキになっていた。子供のように負けず嫌いでね。母親思いだったから、おふくろさんより先立ったことを天国で悔やんでいただろう」

このころは、あるプロボウラーとの婚約話が進んでいた。公私とも充実期に、無念の別れとなった。

戒名は「玉宝院至道真海日正居士」。政府から勲四等瑞章が贈られ、12月23日には蔵前国技館で協会葬が執り行われた。協会はその前日の22日、玉の海の死をきっかけに「公傷制度」を制定。公傷なら、全休しても翌場所は同じ番付にとどまる制度が03年末まで続いた。

母校の愛知・蒲郡中柔道部師範だった河原照夫との「約束」は最後まで守った。横綱になっても精進を続け、タバコは吸わなかった。大関昇進後には母ハルヨのために家を建てた。

河原「律義だった。上棟式にも東京から来て、手形色紙を大工さんに配って頭を下げていた。亡くなったあとに、日記が見つかってね。『今日、先生が来た』とか、細かく書いていたよ。今でも、ごはんに大根おろしをぶっかけて、必死にかっ込んでいた姿が目に浮かぶ。最高の教え子でした」

部屋の後輩の幕内玉乃島は01年春場所に、玉の海が大関まで使ったしこ名に変えた。玉の海の弟弟子だった先代片男波親方(現楯山親方、元関脇玉ノ富士)が「横綱のようになる願望を込めて」その名をもらった。

墓は蒲郡の天桂院にある。伊藤幸寛住職は「名古屋場所前には片男波部屋の方が墓参りに来られます。一昨年は北の富士さんが『初めてだ』と来られました」という。偉業をたたえた石碑は、蒲郡体育館と生地の大阪・太融寺にある。日刊スポーツの名物相撲記者だった岡本晴明が作った「相撲甚句」は今でも協会に大事に保管され、歌い継がれている。

元横綱の北の富士勝昭「2人でちょっとだけ花を咲かせて、そこから輪湖、千代の富士と大きな時代がやってきた。『北玉時代』ってよく言ってもらうけど、シマちゃんが頑張っただけだよ」

強くて優しい横綱の「伝説」は、これからも語り継がれていく。(敬称略=おわり)【近間康隆】

【「悲劇の横綱」玉の海/「伝説」連載まとめ】はこちら>>

★相撲甚句「玉の海一代」 作・岡本晴明

ハアーエー

時は十月十一日の朝ヨー

(アードスコイドスコイ)

アー突如襲いし激痛に

鍛えに鍛えし偉丈夫も

玉と砕けて散り果てぬ

二十七余の生涯を

閉じて旅立つ名力士

五十一代横綱の

その名も悲し玉の海

玉よ島よと慕われた

童顔笑顔も今はなし

ツナを目指して三年余

大関時代のその苦闘

晴れて結んだ不知火の

豪快無比なる土俵入り

残せし記録も数々で

連続勝ち越し二十七

無欠出場九百余

人生意気に感じたる

明るい現代好青年

双葉に近づく右四つの

型の完成その間近

北玉時代もつかの間に

菊の香りを待たずして

あまたファンに惜しまれつ

天に召された玉の海

されど忘るなあの闘志

不屈の努力と根性で

短い人生生き抜いた

玉の気迫は生き残る

未来永劫(えいごう)ヨーホホイ

アー生き残るヨー

(アードスコイドスコイ)