モンゴルの国民的英雄だった、父の背中を追い続けた土俵人生だった。白鵬の父ムンフバトさん(故人)は、68年メキシコ五輪レスリングで銀メダルを獲得。モンゴル人として初めて、五輪メダリストとなった。さらにモンゴル相撲では年に1度の祭典「ナーダム」で、5連覇を含む6度の優勝を誇る。今でこそ「白鵬の父」と称されるが、15歳で初来日した時は「国民的英雄の長男」だった。

「大横綱」と呼ばれる指標の、20度目の優勝を飾った11年秋場所で、パレードのオープンカーに初めて父を乗せた。「これまでは大横綱ではなかったから」。19度優勝しても、モンゴル相撲の大横綱である父と、肩を並べられる存在ではないと思っていた。厳格な父の前では常に、謙虚に振る舞っていた。親方として日本相撲協会に残るには、日本国籍取得が絶対条件。だが国民的英雄の後継ぎが、モンゴル国籍を手放したとなれば、国の一大事だ。白鵬は悩み続けていた。だがその葛藤が、白鵬を史上最強の横綱へと導いた。

あらゆる記録に挑み続けた原動力は、全て父に認められたい一心だった。このタイミングの引退も、64年東京五輪に選手として出場した父に続き「親子2代で東京五輪に関わるのが夢。開会式で土俵入りができたら最高だね」と、現役を続けてさえいれば、五輪に関係できるかもしれないとの思いから。そして好きな言葉は「夢」だ。

父を意識するからこそ、モンゴル相撲やレスリングにはない、神事としての側面で評価されることが、何よりもうれしかった。11年に相撲協会として行った、東日本大震災の被災地巡回慰問では、連日2カ所で土俵入りを行った。各地で地元メディアに取材される度に「力士の四股は邪気を払うと言われていて」と、説明した。岩手・山田町の関係者から「横綱が土俵入りしてから余震が収まった」と連絡を受けたことは、白鵬最大の自慢話として10年、語り続けている。

父にできなかったことが自分にできた-。それが白鵬の最大のモチベーションだった。その父も18年に亡くなった。きっと天国から褒めてくれるだろう。今後は史上最強の横綱として、誰も持っていない経験を後進に還元することを期待している。【10~11年、17~19年相撲担当=高田文太】