優勝45回の幕内最多優勝など、数々の記録を打ち立てて引退した元横綱白鵬の間垣親方が1日、東京・両国国技館で、師匠の宮城野親方(元前頭竹葉山)同席の元、記者会見に臨んだ。師匠、間垣親方のあいさつで始まり、会見は約40分にわたって進んだ。

-どんな感触で横綱という地位に近づいたのか

間垣親方 今、思い返せば師匠が優しくて力士思いで、弟子思いで、本当に感謝していますし、その親方が上がり座敷にいるだけで、親方にほめてもらいたい一心で稽古に励んでいました。そいの思いが関取になり、横綱、大関に昇進したことにつながったと思います。

-準備運動に時間かけていた。稽古への思いは

間垣親方 やっぱり体が細く(体を)大きくしなければいけないという時期もありましたし、早く強くなりたいという時期もありましたけど、そのへんは師匠の考えが全て当たったし、あったような感じがします。

-目標をどう思いながらここまできたか

間垣親方 大相撲に入る時は、横綱になりたいという夢はありましたけど、45回優勝したいという目標は立ててはいなかったと思います。一つ一つの積み重ねが思いが結果につながったと思います。

-数々の記録をどう感じているか

間垣親方 師匠の稽古、基本の大切さを守ってきたことが、勝利につながったのかなと思います。

-横綱900勝にあと1勝。未練はないか

間垣親方 本当は名古屋場所後に引退発表したいという気持ちはありましたが、相撲協会に報告することを優先しておりました。その気持ちでいっぱいです。

-14年間、張り続けた綱の重みは

間垣親方 横綱昇進した頃は、うれしいという気持ちもありましたけど、右も左も分からない時に、大鵬親方と出会ったことを、この場を借りて感謝しております。その大鵬親方に、横綱の宿命の中で頑張らなければいけない、負けたら引退という言葉をかけられた。32回も優勝した昭和の大横綱のこの言葉は重かったです。それから横綱として3年、5年、8年、10年頑張りたいという気持ちになれました。

-その大鵬さんの負けたら引退という言葉が何度も浮かんでくることはなかったか

間垣親方 ありました。特にこの6場所休場は大変、重いものがありました。

-大きな日を迎えて師匠はどんな思いか

宮城野親方 名古屋場所を見た時に、本人の稽古が終わった後に、足を冷やしたりするのがずっと続いていたんです。寝てる以外は、機械を付けて足を冷やしたり、その姿が今回初めてだったものですから、これはもう、これ以上、相撲を取らすことはできないなと思いましたあ。3年、4年ぐらい前から、ケガしてから前に出る相撲がなかなか取れなくなってきて、本当にどうすればいいのかなと考えてやってましたが、本人は頑張ってやりますと言って取っていた。でもそれが治療がだんだん増えてきて、今回はもう、この状態では無理だなとハッキリ分かるような状態にまで我慢していたような気がします。

-師匠としてそれを見るのは

宮城野親方 それは、つらかったです。寝る前も2人がかりでマッサージしたりして、それで寝てた状態。そこまで体が悪いのかとびっくりしました。

-平成12年の暮れに初めて部屋に迎え入れた時のことは

宮城野親方 その時は175センチ、62キロの小さい体で、この子はどこまで強くなるのかなと思って心配したぐらいでした。その後、6カ月間で75まで太らないと相撲界を去らなければいけないと。そのためにどうしようかと思った時に、稽古はさせないで、この子のためなら食べて寝かせて、それが最後でどうなるか分からないけど、努力させて(検査に)受かったらいいなという気持ちで、それで75キロまで太って受かることが出来た。それからは稽古に対しても、自分(宮城野親方)の方から「稽古はやるな」と言ったことはあるけど「やれ」と言ったことは1回もない。逆に止まる側だった。あまりにもやりすぎるから、もういいから止めなさいと。そういうことは何回もありました。

-今、振り返ってどんな弟子だった

宮城野親方 準備運動とかに対しては、一番だと思う。今まで30数年間やってきたけど、こういう若い人は初めて見た。稽古に対しては本当に真面目な子で、努力もしたし、自分が偉くなろうと思ったら、人の2倍や3倍、番付が上だろうが関係なくしっかり稽古をやってきたと思う。特に横綱になってすぐの時は、稀勢の里関や日馬富士関をつかまえて、よく稽古している姿を見ましたが、日馬富士と2人で1時間ぐらい稽古をぶっ通しでやっていたことも覚えています。それだけ、よく稽古をやっていたなという気持ちはあります。