いよいよ19日の今夜に小嶋陽菜(29)が、AKB48を卒業する。

 フィナーレを直前に控えて、我々のAKB新聞(アイドル専門誌)や漫画誌からファッション誌やカルチャー誌まで、幅広い紙媒体でインタビュー記事が掲載されている。どれも、それぞれの分野に沿った形で自分を表現していて、読み応えがある。それらからは、小嶋の価値観がはっきりと伝わってきた。

 彼女の人生や夢や目的は、「アイドル」とか「モデル」「女優」といった、職業や枠でくくられるものではない。人生でのこだわりを、ひと言で言ってしまうと「粋」だという。「そんなことを自らの口で説明しちゃうこと自体が、すでに粋じゃないんですけど(笑い)」と、自虐的な断りを入れながら、そう明かしてくれた。

 ところで、人間の多くは、まずは異性にモテたいと思う。それがある程度かなうと、次は同性の支持を欲する。これがなかなか難しい。憧れられるほどの魅力を持ちながらも、やっかまれることのない嫌みのなさを、絶妙な案配で備える必要があるからだ。小嶋は、何年もかけて、獲得した。デビュー当初は、美人アイドルとして多くの男性ファンをとりこにして、アイドル人生の中盤からは、モデルとしても活躍して、女性の憧れの存在にもなった。

 美女として気取って生きられるルックスでいながらも、肩肘を張らずに飄々(ひょうひょう)と振る舞う。秋元康がいうところの「照れからくる脱力感」で、無駄な敵は作らない。自虐的にボケたかと思えば、愛情を込めた上での鋭いツッコミで、頭のキレ良さもチラリとだけのぞかせる。笑いのセンスで、美人特有の敷居の高さを払しょくして、ギャップ萌えをさせてきた。

 オシャレなモデル業界だろうが、ユーモアセンスが求められるお笑い界だろうが、高度なサービス精神が必須のアイドル界だろうが。いつでもどこにでも自分らしさのままで身を置ける柔軟性と身軽さは、小嶋だけの究極の能力だった。

 ファッション誌で表紙を張れば完売させてしまう人気の持ち主。アイドル卒業後は、ファッション界でさらに活躍すると誰もが予想する中で、自ら「私はすごくオシャレなわけでもないし、(生粋の)モデル体形でもないから、それ(ファッション関係)をやりながらも、常におもしろいことを見つけていきたい」と言う。マスコミや関係者が、もみ手で寄ってきても、変な勘違いを起こす様子はみじんもない。すでに自分の能力や個性を冷静に把握できているからだろう。

 当然、かわいい女性と自覚もしているから、周囲にはもてはやされたいし、かまってもらいたいし、大事にされたい。そのためには頭は冷静でも、たまには、あえて「小さなわがまま」も出す。あくまでも安く見られないための演出だという。一方で、「勘違いが女性をきれいにする部分も実際にある」と、経験を踏まえて確信もしている。それなのに、ちやほやされても、決して自分を過大評価だけはしない。「我を見失うことや見えを張ることが最も無粋」と分かっているからだ。

 小嶋と比べると、必要以上につんけんなモデルや、きらびやかさを前面に出すセレブ、猫なで声で上目遣いをするアイドルが、少し気の毒にみえてくる。それは、彼女たちのどこかには、背伸びする必死さが透けて見えてしまうから。余裕しか見えてこない“ゆるさ”をまとって、アイドル界とモデル界を自由に行き来した小嶋は、やはり次元が違っていた。

 13日に卒業前の最後の劇場公演を観劇した。いつも通りに飄々としながらも、ほんの一瞬だけは感傷的な表情も見せた。相変わらず、あらゆる案配が絶妙だった。

 同時に、10年前に見た、ただの地下アイドルだった姿が、同じ舞台で重なり、よみがえった。あのころから素養があり、今の価値観の基盤が備わっていたとしても、あの時の小嶋は、やっぱりまだ真っさらなキャンバスだった。右も左も分からない女子高生だったと思う。デビューしてからの11年間で、多くの人から学び、吸収し、今の小嶋陽菜が出来上がっていった。まさに「何でもありのAKB48」で過ごした時の濃密さが、彼女を成長させた。

 今夜の本当のフィナーレで、何を見せてくれるのか。その瞬間が待ち遠しくもあり、名残惜しくもある。