平成を代表する女性アイドルグループAKB48は、2005年(平17)12月8日、東京・秋葉原のドン・キホーテ8階にオープンした小さな専用劇場で「会いに行けるアイドル」として産声を上げた。ファンによる投票でCDの歌唱メンバーを選ぶ「選抜総選挙」など、次々とアイドル界の常識を覆し、社会現象にもなった。国民的アイドルのブレークのきっかけの1つとなった「握手会」誕生前夜に迫った。

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まだ第1回選抜総選挙も開催前の08年。AKB48は、ピンチに直面していた。ジワジワと人気も上がる一方で、デビュー時からのレコード会社との契約が終了した。そんな中現れたのは、「握手会」の全国展開プランを温めていた2人の男性。キングレコードの紺田大輔さん(昨年逝去)と湯浅順司氏(36)だ。湯浅氏はもともと「ハロー!プロジェクト」のファンでもあった。

湯浅氏 何度か劇場公演を見させていただいていて、曲も良いし、衣装も素晴らしかった。それを広めるためには何をしたらいいのかと考えたことが、始まりでした。

それまでのAKB48でも、握手ができるイベントなどは行われていたが、大規模なものではなかった。当時は曲のダウンロードなど、ネットで全てのことが完結することができるようになってきた時代。「人と人とが会うことで生まれる熱があります。直接会うのが1番というのを訴えたかったんです」(湯浅氏)。

08年10月22日発売のキングレコード移籍第1弾シングル「大声ダイヤモンド」で、握手券付きのCD購入者を対象にした「全国握手会」を初開催。アイドルのイベントは屋内や、クローズな形で行われるのは定石だったが「あえて近くを通った人が誰でも見られる場所を選びました」(湯浅氏)と、福岡・キャナルシティ、東京・新宿ステーションスクエアなど野外4カ所で行った。高橋みなみ(27)が当時を振り返る。

高橋 最初はちょっと怖かったですね。人が来るのかという不安もありましたし、どうしても「アキバ系」のイメージがあって、変なものを見るような目で見られましたから…。でも、冷やかしで来た方も、帰り際には「●●ちゃん、かわいくない?」というのを見ては、ニヤッとしてました。そこから「会いに行ける」だけじゃなくて、「会いに行く」形が確立していったと思います。

全国に飛び出していく一方で、劇場に通う“濃い”ファンのために、メンバーをあらかじめ指名して握手ができる「劇場盤(個別)握手会」も実施。「大声-」は初週で4・8万枚を売り上げ、当時最高のオリコン3位にランクイン。アイドルファンを中心に口コミは広がり、次のシングル「10年桜」では各会場に人があふれた。「想定外の人数で、これは来たかもと思いました」(湯浅氏)。

握手会はファンとメンバーにとってもなくてはならない存在になっていった。

高橋 結果が如実に出るのでシビアな部分はありますし、実際大変です。でも、テレビに出た直後の反応が直で返ってくる場所があるのは、自分たちの糧にもなりました。握手をすると、ファンの方には具合が悪いとか、ちょっと向上心がない時期とか、何でもバレるんですよ(笑い)。その分、絆は深いです。

その後グループは一気にブレークし、国民的アイドルと呼ばれるようになった。握手会は全国にファンを増やしただけではなく、副産物もあった。「今入ってくるメンバーからは『実はあの握手会にいました』とよく聞きます。やってて良かったなって思う瞬間の1つです」と湯浅氏は感慨深げだった。【大友陽平】