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熊井啓監督くも膜下出血で死去

 「海と毒薬」「サンダカン八番娼館 望郷」「愛する」などの作品で知られ、日本を代表する社会派映画監督の熊井啓(くまい・けい)さんが23日午前9時51分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。76歳。今月18日に東京・調布市にある自宅前で倒れているのを発見され、病院に運ばれ入院していた。葬儀・告別式は故人の遺志で、近親者のみの密葬とし、お別れの会を後日行う予定。

 熊井監督の遺体はこの日午後8時半すぎ、家族が迎える都内の自宅に戻った。新作の準備に意欲を見せていた中の無念の死だった。64年に「帝銀事件 死刑囚」で監督デビュー、新作が記念の20本目になるはずだった。企画も出来上がり、今年に入り撮影所に足を運んで、打ち合わせなどを行うなど動きだしていただけに、突然の死去が惜しまれる。この日、弔問に訪れた奥田瑛二は「監督は『我が人生最高の傑作になる』と話していた。内容は言えないけど、すごい作品」と悲しんだ。

 18日早朝に自宅の敷地内で倒れていたのを見つけたのは、新聞配達員だった。折り悪く、妻明子さん(66)は外出中だった。家族によると、入院後は意識が戻り安定した状態が続いていたが、23日朝に容体が急変、明子さんや長女美恵さんが見守る中、眠るように息を引き取ったという。

 長野県出身の熊井監督は、54年に日活に入り、助監督を経て64年に監督デビュー。えん罪、報道のあり方、差別問題など一環して社会正義を叫び続けてきた。海外での評価も高く、75年のベルリン映画祭で「サンダカン八番娼館 望郷」が銀熊賞、87年には「海と毒薬」が銀熊賞・審査員特別賞を受賞した。01年には同映画祭で功労賞も受賞した。

 誰もが認める巨匠だが、現場では激高することもなく、いたって紳士的だったという。遺作「海は見ていた」(02年)にかかわった関係者は「淡々と確実に頭の中に入っていることを実現していた」と振り返る。また、熱烈な巨人ファンでもあった。負債を背負った日活の再建後第1弾「愛する」(97年)が日刊スポーツ映画大賞作品賞を取った際のインタビューでは、「守りを固めて1点差でいいから勝ち続けて」と、野球に例えてエールを送るなど、ちゃめっ気も見せた。

 評論家の佐藤忠男さんは「人生をいかにしてまじめに生きるべきかを描き続けた人だった。彼に続く人は、きっと現れてくれる」と話す。熊井監督が映画界に残したものは、映画人が引き継いでいかなければならない。幻になった20作目が、製作されることが望まれる。

[2007年5月24日8時5分 紙面から]

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