マーチン・スコセッシ監督の「最後の誘惑」(88年)は、イエス・キリストを悩める人間として描き、ユダの裏切りは神の使命と解釈した作品だった。

 キリスト教関連団体から抗議を受け、米国の劇場がプラカードに囲まれた騒動は記憶に残っている。

 あれから28年。再びキリスト教を題材にしたスコセッシ監督の新作が昨年11月にバチカンで上映され、ローマ法王との面会もかなった。歴史的和解をもたらした作品が遠藤周作氏原作の「沈黙-サイレンス-」(21日公開)である。

 年末の日刊スポーツ映画大賞の打ち合わせで、「沈黙」を配給する角川映画の井上伸一郎代表を訪ねたのが、この上映会の直後だったこともあって、そのときの話を聞いた。

 法王は「沈黙」を読んだことや、日本での宣教を希望していたことも明かし、監督は長崎の修道女や日本の殉教者たちの絵を贈った。短時間だったが、中身の濃い対面になったようだ。

 少年時代には神父を志していたスコセッシ監督は、この作品を撮るに当たって「人生のかなりの部分を宗教への思いや習わしにとらわれてきました。信仰について考えることなどやめてしまおうと思ったことも何度かありましたが、そのたびにやはり、宗教的な物語や観念に戻ってしまいます」と語っている。

 法王が映画「沈黙」を受け入れたことは、監督にとってとてつもなく大きなことだったに違いない。改めて、法王と巨匠を和解させた遠藤氏の原作の力、宗教の深奥に踏み込んだ厚みを思った。

 鎖国の日本にひそかに上陸した宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は、同僚のガルべ(アダム・ドライバー)とともに信徒の村にかくまわれ、布教活動を続ける。弾圧は過酷で、信徒であることが分かれば拷問によって改宗を迫られ、受け入れなければ死が待っていた。

 善良な信徒たちに降りかかる残酷にロドリゴは無力感を覚える。地獄のような日々にも神は沈黙したままだ。ロドリゴ自身もとらわれの身となり、奉行の井上筑後守(イッセー尾形)は「あなた方の布教はかえって領民を苦しめている」と話す。

 信徒たちの拷問や処刑を目の当たりにし、ロドリゴの心は「信仰」と「救命」の間で激しく揺さぶられる…。

 深緑の山々をやや淡色に映し、海の灰色の荒々しさを捉えた自然描写は美しい。「ニューヨークのビルに囲まれて育った」監督は、この作品を構想してから延べ30年近く日本の心情を考えてきたという。それでも、舞台設計や所作は細部まで日本人キャストとスタッフの意見にそのまま従った。そんな謙虚さからか、外国作品には珍しく、違和感はほとんど無い。

 何度も転び(改宗し)ながら、ロドリゴに付きまとう案内役のキチジローにふんした窪塚洋介と、微妙な迷いをのぞかせながら誠実な信徒として死を選ぶモキチを演じた映画監督の塚本晋也が対照的なキャラクターを際立たせている。ともに体を張ってすさまじい。

 奉行所側のイッセー尾形や通辞(通訳)の浅野忠信は、時々意外な優しさをのぞかせて、正邪の見極めの難しさを印象付けた。

 スコセッシ監督は25年前、ニューヨークで生前の遠藤氏に会っている。「沈黙」の映画化の企画はすでに進んでいたが、氏は言葉少なに「実現するといいですね」と話したそうだ。

 生前の遠藤氏といえば、北杜夫氏とのテレビ対談などが印象にある。いつも軽妙な語りで笑わせる一方で、何事にも動じないところがあった。

 長崎市には碑文をのこしている。「人間がこんなに哀しいのに 主よ海があまりに碧いのです」。この映画はそんな静かで力強い氏の思いにそっている。生きていれば、さすがの遠藤氏も心を揺さぶられただろうと思う。【相原斎】

「沈黙」の1場面。熱演の窪塚洋介(C)2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved
「沈黙」の1場面。熱演の窪塚洋介(C)2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved