大杉漣さんが亡くなった。66歳だった。

 映画、ドラマで活躍した大杉さんだが、もともとは「転形劇場」という小劇場の出身。

 劇作家太田省吾さんが68年に旗揚げした劇団で、その舞台を何度か見たことがあるが、同時代に人気だった唐十郎さんの「状況劇場」、寺山修司さんの「天井桟敷」とは一線を画す、ユニークさが際立っていた。

 せりふはなく、舞台上で役者たちが無言で演じる。「沈黙劇」と呼ばれ、せりふのない分、役者が体を通して演じる姿、そこにある佇(ただず)まいが言葉以上の意味を持って見る者に伝わってくる。能に近い、ストイックな舞台だった。太田さんは「小町風伝」で岸田戯曲賞を受賞するなど、当初はせりふのある舞台を書いていた。その後、せりふをそぎ落とし、最終的にせりふのない「沈黙劇」にたどりついた。代表作「水の駅」は海外でも高い評価を得た。

 大杉さんは明大に入学し、唐さんや寺山さんの舞台を見ていたが、役者になる気はなかった。しかし、雑誌に書かれた太田さんの文章を読んで、太田さんという人間に興味を抱いて会いに行った。そこで劇団に誘われ、台本を渡されたのがきっかけで、74年に入団した。転形劇場の舞台作りは変わっていた。最初こそせりふはあるが、稽古を重ねる中でそぎ落としていく。次の段階で自分が話したいせりふだけを残し、最終的にすべてのせりふがなくなった。その稽古場は異様だった。稽古が進む中で役者たちはふだんでも寡黙となり、結局、稽古でもひと言もしゃべらずに終わることもあったという。

 大杉さんも出演した「水の駅」はこんな劇だった。舞台中央にある、取っ手の壊れた水道から細く流れる水を求めて、さまざまな旅姿の男女がゆっくりと現れ、水を飲んで、休息し、そして去っていく。数メートル進むのに5分もかかる緩慢な動きの中で、人物の心の奥、それぞれの人間の関係性が浮かび上がった。太田さんは人間という存在をあるがままに見つめ、描き出した。「300の顔を持つ男」と言われた大杉さんの存在感ある演技は、ここで培われた。同じ劇団出身には品川徹さん(82)がいる。

 太田さんは88年に劇団を解散した。当時はバブル時代。バブルに浮かれ、言葉が過剰な舞台がもてはやされる演劇界の状況に嫌気が差したのが理由の1つだった。大杉さんは舞台を拠点に、ロマンポルノ映画などに出演していたが、解散で拠点を失った。93年に北野武監督の映画「ソナチネ」にオーディションに合格して出演したのを機に、映画、ドラマで名脇役として活躍するようになった。

 亡くなる直前まで出演したテレビ東京系ドラマ「バイプレイヤーズ」で共演した松重豊(55)田口トモロヲ(60)は舞台出身で、遠藤憲一(56)も一時、仲代達矢さん主宰「無名塾」にいたことがある。大杉さんは「ソナチネ」出演時に40歳を超えていた。マスコミは、知名度が上がる以前の活動を安易に「下積み」と表現しがちだが、大杉さんは「下積みと思ったことはない。役者は生涯、下積み」と、よく言っていた。役者としての原点である転形劇場時代の舞台に誇りを持っていた。【林尚之】